■CDなど音楽ソフトの生産額はピーク時の4割
■半年間に音楽商品を買ったことがある人は全体の3割。
■最も利用する音楽聴取手段は、4割以上が「ユーチューブ」

■「ヒトカラ」(一人カラオケ)出現        (以下の本文から抜粋)

________________________

2018年1月1日朝日新聞 (平成とは 第1部・時代の転機)
ひとりカラオケ、自分自身との対話 

 

 「ハッピー?」を時代に問い続ける矢沢永吉が紅白歌合戦に初めて出たのは、2009(平成21)年の大みそかだ。放送担当としてNHKの舞台裏を取材していた私は、さっそうと通り過ぎた長身の男の影を見た。先月の武道館公演でも、同じことを感じた。
 「この人は若い。私よりも。私より若い人よりも」


 昨夜の紅白も、昭和から活躍し続ける歌い手が登場した。出場歌手が映す時代の姿は、昭和と平成で大きく異なる。それを音楽ジャーナリストの柴那典(とものり)(41)は「大小の袋」に例える。
 昭和から平成初期は、一つの大きな袋に、老若男女、誰もが知る人気歌手たちが詰まっていた。それが今世紀に入り、女性アイドルグループ、若手演歌歌手など、複数の小さい袋に分かれた。
 最近の紅白出場歌手は、それぞれの小さな袋から少しずつ選ばれる。視聴者は、興味のない袋の歌手を知らない。「普段から、SNSでも、小さな袋を共有する同士で対話する。共有しないメンバーでカラオケに行くと、ぎくしゃくするのには、そんな背景があるのではないか」
 確かに、大勢でカラオケに行く機会が減っている。私はひとりカラオケが長年の趣味なのだが、近ごろ受付で自分と同じような一人客をよく見かける。天皇誕生日の昨年12月23日夕、東京・渋谷に向かった。
     *
 カラオケ店が入る商業ビルから、1人ずつ出入りする男女が目立つ。一人でカラオケを楽しむ人たちだ。
 専門学校に通う女性(18)は進路に悩み、自信が持てず、勉強が手につかなくてカラオケに来たという。
 「私たちは自分らしさを問われ続け、何もないとわかる。でも実はそれこそが個性。自分が自分を認めなくて、誰が認めるのか。だから、そんな自問自答の歌を歌いました。サカナクションの『アイデンティティ』。それがいまの私です」
 友人と来る時は、選曲が違うという。「全員で歌える曲ってないですよね。一番盛り上がって大合唱になるのは『君が代』と線香のCMの『青雲のうた』」
 「大きな袋」は、国家と広告。それが平成なのか。


 23、24の両日、ツイッターでは「ヒトカラ」というつぶやきが6千件以上あった。全国カラオケ事業者協会によれば、ひとりカラオケを短縮したこの言葉がメディアなどで取り上げられ始めたのは07年ごろから。1人客の割合は16年度、全体の16%を占めた。
 昭和から平成、バブルの崩壊後に経済と消費の右肩上がりが止まった。必要なものは店まで行かずにインターネットを通じて購入。新車よりリースやシェアが注目される。音楽やカラオケも、通信技術の革新に伴って大きく変容した。


 CDなど音楽ソフトの生産額はピーク時の98年に比べて4割に落ち込んだ。日本レコード協会が16年8月に行った調査では、半年間に音楽商品を買ったことがある人は全体の3割。買わない人が挙げた理由で最も多いのは「今持っている曲で満足している」。最も利用する音楽聴取手段は、4割以上が動画サイトの「ユーチューブ」と回答した。


 カラオケの機械は、レーザーディスクなどから通信カラオケへと進化。曲数が飛躍的に増え、現在は20万曲以上だ。分厚い冊子の目録は、タッチパネル式のリモコンに置き換わった。
 1978年に矢沢の「時間よ止まれ」が流行。その翌年から、内閣府の生活満足度調査で「心の豊かさ」を重視する人が「物の豊かさ」派を引き離していく。
     *
 生涯未婚率の上昇や高齢化の進展により、平成の時代に「単身世帯」が最も多い世帯類型となった。「おひとりさま」は流行語となり、一人客専門の飲食店ができ、コンビニでも総菜の量がコンパクトになった。


 「ひとり」についてよく知る哲学者で、「暇と退屈の倫理学」を著した、高崎経済大学准教授の國分功一郎を訪ねた。いまや平成の日常となった、満員電車の風景を例に語り始めた。
 多くの人がぼうっとスマホを見ている。暇さえあればゲームを始める。「消費社会は私たちを終わることのない消費のゲームに投げ込み、もはや依存症に近い。平成にもたらされたのは、依存を利用して人々にお金を使わせる仕組みではないでしょうか」
 暇は「自分で自分のすることを決められる自由」、退屈は「満たされない状態」。國分はそう整理し、「暇だからといって退屈するわけではない」と言う。
 平成になってIT化が進んでも、人々は楽になるどころか逆に長時間、仕事に拘束される。仕事以外も誰かとつながり続けている。
 自分が本当にしたいこと、幸せを感じることは何なのか。心身が疲れてそれを考えられない。「楽しむには、自分と向き合う時間や訓練が必要なのです。人は楽しみ方を知らないと、暇、自由の中で退屈する。退屈がつらいから、スマホに貴重な時間を奪われる」
     *
 矢沢も自伝にこんな内なる自分との対話を記している。「オレは誰のために生きているのか?」「自分のために生きている。自分が気持ちよくなるために」「自分のハッピーのために自分で絵を描くべきだ」
 國分は矢沢の言葉から、ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントを思い出したという。「アーレントは『孤独と寂しさは違う』と言っています。孤独とは、私が自分自身と一緒にいること。自分と一緒にいられない人が寂しさを感じ、一緒にいてくれる他者を求める。だから、自己と対話できない。孤独にならなければ、人はものを考えられない。孤独こそ、現代社会で失われているものです」


 その言葉に、私は靴擦れのような痛みを感じた。流行に流されて似合わない服を買い、「話題の曲を歌えば友達や同僚にウケる」と、本心では共感もしていないCDを買ってきた。昨夏、旅先で見た花火の写真をインスタグラムに投稿した。「いいね!」の数は13。内なる自分が言う。「1300でも、1でも、今まで生きてきた中で見た一番美しい花火だったことに変わりはない」。もう一人の自分が答える。「当然だ。人と自分を比べてばかりいたら、全てが面白くなくなる」。この感覚。たぶん、ハッピーだ。=敬称略

 

2017年9月15日 拙ブログ ⇒ 「アー・ユー・ハッピー?」