昨日、ふるさとの山梨から4人の友達が出てきて、途中で合流、一緒に横浜観光。彼らはその後三浦半島最先端の三崎まで行き、一泊旅行を楽しんでいる。当初私も最後まで一緒の予定だったが、急遽今日仕事が入ったため、止むなく昨日一日だけの同窓旅行となった。

 

みな中学三年の時の仲間。もう今から35年も前のことだ。しかし、今でもあの教室からそのまま飛び出しただけのような関係で、あっと言う間に35年の時を埋める。いつ会っても同じ話題だけど、大爆笑トークに花が咲く。お互い今でも下の名前で呼び捨てだ。本当に有り難い愛おしい仲間たち。
 

彼らと会うたびにあの時の担任の先生も思い出す。もう75歳を超えたが、今もお元気だ。帰省するたびに挨拶に伺っていたが、数年前大病をされて以来、控えている。あの時教室で先生が私たちに話してくださった言葉の数々は今も覚えている。
 

卒業式、最後のホームルームで先生は語って下さった。

「君たちは何歳になっても、どういう立場になっても、社会の中で弱い立場で苦しむ人の味方になる人間になって欲しい」

絶対に忘れることはない。

そして、こういう昔の友達や恩師のことを思うにつけ、思い出す松山千春のコンサートでのトークと歌がある。

私の中では、音楽評論家の富澤一誠氏の次に位置する、国内随一の「松山千春研究家」の夢野旅人さんのブログから引用する。
 

2013年5月14日、 東京国際フォーラムの2日目。
この日、良生さんも客席にいた。1回目のアンコール。彼が来ているということで、弾き語りで「良生ちゃんとポプラ並木」を歌った。

2回目のアンコール。「流浪」のイントロが流れ幕が上がった。ピアノの演奏が流れる中、「良生、うちは、金がなくてな。母ちゃんは土方だし、父さんは好きな新聞作っていたし・・・。小学校・・・・何年のときだけっけな。おまえんちにいって、ギターというのを初めて触って弾いて・・・。これが、エーマイナー、デーマイナーだ。あれから始まったんだよ。あれから始まって、こんなにたくさんの人が俺の歌を聴いてくれるんだよ。お前たちは最高だよ。拍手が止み、一度歌いかけたようにみえたが、「イーマイナー」といって歌いだした「旅立ち」。       https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-12013729923.html

この会場に私もいた。何十回と松山のライブに参加した中でも、本当に感動したシーンだった。

 

数年前、帰省して先生のお宅に伺い、そこを去る時、先生は言われた。「●●(私の苗字)、40年以上教師をしてきて、それこそ数十年に一回ぐらいのサイクルで、中学時代の友情を40歳を越えても続ける年回りがある。そのひとつがお前たちの年だ。一生あいつらを大事にするんだぞ」

そして奥様とともに、私があの角を曲がるまで見送ってくださった。
 

 また夢野さんのブログから。松山千春、2013年春のツアー、国際フォーラム。

https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11562420666.html

 

すると、マサル先生が『千春君、ちょっと』と呼ばれた。
『実は、妻は二年前から痴ほう症で、リハビリして今日のコンサートにきた。 コンサートを見ながら、一緒に笑ったりできて、本当によかった。 一時は、俺のこともわからない状態だった。 あんな楽しそうな妻を見たのは久しぶりなんだ。ありがとう』と言ってくれた。

お二人と挨拶をかわして、見送った。『今日は、ありがとうごさいました』と、頭を下げた。その頭が上げられなくなった。

『(7,8年前に癌を患った)マサル先生。癌が転移しないように検査を行ってください。エイコ先生、一日でも長くマサル先生のことを覚えていてください。そして、あなたの教え子の中に、松山千春という歌を歌っている生徒がいるということを覚えていてください。

先生は、あんなに凛々しかったじゃないですか。あんなに、賢かったじゃないですか。
神や仏がいるのなら、どうか、このご夫妻の行く末が素晴らしいものであってもらいたい。
そう祈っていたら、頭が上げられないほど、涙が溢れてしまった。

また、コンサート来てくれて、楽しい時間を過ごせますように」と5曲目「途上」。

この時の国際フォーラムにもいた。私の恩師のことが二重写しになり、涙が溢れて仕方なかった。その場で、私の恩師のご長寿、ご無事を祈った。
 

あの先生、そしてあの仲間たちがいたからこそ今の自分がある。恩師が、仲間たちがいつまでも元気でいて欲しい―心からそう思いつつ、JR石川町駅で、彼らと逆方向の電車に乗って、別れた。