<松山千春の歌詞作りに願うこと>
愛読している夢野さんのブログ。今日は以下(リブログ)松山千春初期の名曲「時のいたずら」のレビューを掲載されていた。
一時期ライブで頻繁に歌われるようになって、少々お腹一杯という時期もあったが、基本は大好きな曲で、カラオケに行っていた頃には必ず歌った。メロディラインは松山千春そのものだと思う。
その夢野さんのブログの中で、先日のラジオで松山が語った曲作りに関するコメントも載っていた。
その中でさだまさしの曲作りに関すること。
「さだまさしもいい詞を書くんだけど、奴は凝りすぎる。妙に凝っている。 あれがちょっと
鼻につく。詞としては全然いいんだけど、なんか妙に凝っていてね」
確かに松山の言うことは当たっているところもあるとは思う。またさだまさしの肩を持つつもりもないし、良し悪しではなく作風の違いだと思うが、要するに松山とさだまさしの語彙力、表現力の違いではないのか。
”向こうの丘の上に一本の樹がある”―この情景を歌詞にするとき、松山は上(左)のとおりの歌詞になるだろう。加筆しても「青い空と白い雲、山々」というそのものの言葉ぐらいか。それがどの歌詞でも頻繁に使われる。
しかしさだまさしは、その時々の樹の幹や葉の様子、勢いかあるかどうか、周囲の山々の顔やその周りにどういう人がいるかなどまで、豊富な言葉で表現する。
おそらく、凝っているかどうかではなく、さまださしのこれまで豊富な読書量、本を書くぐらいの高いレベルの文章力によるものだと思う。
私の感覚としては、さだまさしには中島みゆきに近い歌詞の世界がある。
再び松山のラジオでのコメント。
「(俺は)歌詞とメロディーが一緒に出てくる」―そうだと思う。私がいい曲だなあと思う松山の名曲の数々は、おそらく歌詞とメロディが一緒に出てきたんだろうなと、感じる。
そして
「作詞、作曲に関して自分は・・・ストレート。思っていることを、ぱーと詞にしてしまう。
そこに余計なものはつけたくない。思っていることをバーンと」―
そうだと思う。だからこそ、デビュー当時から5年ぐらいは多くのファンが松山の歌に新鮮さを感じ、感動したのだと思う。
しかし、私の認識としては、それ以降変わり映えしない歌詞、ありきたりの単語のリフレイン、初めて聴く曲でも次の歌詞が出てきてしまう展開―そんな曲が続いてきた。がゆえに、飽きられ一気に多くのファンが離れていったのではないかと。ここ数年はそうでもないが、それは結構長い間続いたと思っている。
メロディはやむを得ないと思う。しかし歌詞は、その時の自身が置かれた状況や歳相応の心境、逆境を越えた人にしか分からない境地みたいなものが反映されていくのだろうと思っている。つまり歌詞には作り手自身の葛藤や人間的成長などが見えるものだと思う。
歌詞とメロディが一緒に出てくることは松山の強味だ。なので余計に、自然に出てきた歌詞を、この言葉は別の単語に言い換えられないか?、この歌詞、同じことなのだが、もう少し別の視点からの表現はないものか?― さだまさしのレベルまでとは言わない。一、二度でいい、そうやって推敲して曲(歌詞)を仕上げて欲しいと願っている。