(石巻市「がんばろう!石巻」大看板  2017年8月11日撮影)

 

東日本大震災から6年5ヶ月たった8月11日、念願だった石巻市を訪れることができた。

 

東北復興の象徴であり「ど根性ひまわり」発祥の地である「がんばろう!石巻」の大看板
海に一番近い小学校、日頃の非難訓練が生き約300人の生徒が無事に裏山に非難した

門脇小学校(現在は廃校)。

石巻市を一望できる日和山公園
 

門脇小学校との対照で語られ、多くの生徒さん、職員の方々が津波で亡くなった大川小学校。ここにも行く予定で石巻に入ったが、門脇小学校を見た後、行くのをやめた。

 

この6年で復興は進んだのだと思う。しかし河口から市街地に車を走らせると、仮設住宅地帯がまだあった。

 

あの日、私の職場でも未経験の大きな揺れ。関係者200人ほどが建物の中から悲鳴をあげながら非難してきた。直後、その方々の帰宅支援、宿泊手配、食事の手配などに走った。テレビからは信じられない巨大津波襲来の映像、被害状況が刻々と流れてくる。

 

その対応の最中、ふと小学校に行っている二人の「我が子は無事だろうか」と頭をよぎった。妻は? しかし頭を振るようにその気持ちを振り払い、眼の前の方々の支援に集中した(結果、家族は無事だった)。

 

死者、行方不明者18,000人超。未曾有の大震災はまだ6年前のこと。

 

(石巻市 日和山公園  2017年8月11日撮影)

 

1995年1月17日5:46、阪神大震災発生。

この時私は大阪の友人の家に泊まっていた。寝ていた体が浮き上がる直下型大地震。あくまで例えとして表現すれば、「マジンガーゼットかゴジラが走ってきた」ような、地盤全体が揺れている感覚だった。あの揺れを今も体が覚えている。


テレビからは神戸が燃え上がる映像、大きなショックだった。死者約6,500人。

 

当時は携帯電話もLINEもメールもない。職場からみれば2日間私が、大阪で地震に巻き込まれ音信不通、安否確認できず、という状態だったらしい。

 

震災直後2回、ひとりで神戸を訪れた。三ノ宮の駅にあるそごうは建物の半分が崩落、駅から各フロアの売り場が見えた。街中埃にまみれ、マスクがないと歩けない。屋根にはブルーシートがかけられ、あの「埃と水色の街」は忘れることができない。

 

埃まみれの街を歩いた時、そこで必死に復興に戦う人々の姿を見た時、なぜか「生きる力」が漲ってきた。自然の力を身にしみるとともに、「人間ってすごいな!」と涙が溢れ、「よーし、負けてたまるか!」と心の底から思った。

 

地震が決して他人事ではなく、自分のこととして、自分の体の一部になったように思えた瞬間だった。

 

被災者の数はその地震の規模を端的に表すのかもしれない。しかしそんな数では絶対にはかることのできない、一人ひとりの人生があり、ご家族の絆がある。

 

だから東北にも行きたかった。今回、石巻に行けて本当によかった。

 

この世が安穏でありますように。人びとが無事でありますように。

改めて、心から祈った。

 

(神戸 三ノ宮駅前デッキから。2016年3月撮影)