『ケネディ -英知と勇気の大統領ー』(中屋健一著、昭和42年(1967年)刊行、旺文社文庫)―先日の全国紙コラムで引用されていたのを読んで、近くの図書館に行ってみると、既に「話題の書」コーナーに配架されていた。旺文社から[特製版]として昭和42年に刊行されている。金額は240円(当時)と奥書にある。文字も当時を思わせる小さなサイズだ。発刊当時のままかどうかは不明だが、ハードカバーの傷み具合が時の流れを伝える。今読み進めている。

 

  私の友人のジャーナリストも本を出していて、売り上げランキングなどにも登場する。しかし彼曰く「ビジネス的には赤字です。今は本が売れません。若い人は本を買わない、読みません」と嘆いていた。もちろんこういう時代である。いわゆる紙の本を読まなくても、電子ブックなど読む方法は多様化している。
  出張が多く、電車や新幹線に乗る機会が多い私は、電車の中でおじいちゃん・おばあちゃん世代はともかく、老若男女のほとんどが電車に乗ってすぐにスマホを取り出す光景を頻繁に目にする。ずっといじり放しである。指の動きを見る限り、それで小説や新書などを読んでいるとはなかなか思えない。

 

  今日(2017年7月17日)の日本経済新聞、池上彰氏の連載には「文庫・新書は教養の宝庫―読んだ上で思索巡らそう」とのタイトルがつけられていた。以下少々長いがそこからの引用。

  「文庫あるいは新書は手軽に教養を得られる優れものでした。当時の文庫は定評ある古典ばかりでしたし、新書は、大学教授が専門の研究分野を一般向けに書いたものでした。当時の高校生にとって、新書は気軽に読める本の代名詞でした。(中略)本をたくさん読んでいれば、教養が身に付き、思索する力が得られると考えていたのに、そうではないというのです。(中略)読んだ上で、自分なりの思索を巡らしてみること。そこで初めて、自分の頭の中は自分の思想の運動場になれるというのです」

  本を読むことを通して、思索を巡らすことが出来るようになるには、やはりそれなりの冊数を読む必要があるだろう。私の恩師は学生たちに学生時代の4年間で500冊の読書をと呼びかけられた。1週間に3冊弱のペースである。私が学生時代には先輩から、最低週1冊の読書(年間約50冊)をとよく言われ、あの時についた読書癖のお陰で、今になってもいつも本を必ずバッグの中に入れ、電車の中やちょっとした待ち時間などに読む。読み進める中で、そこに広がる出来事や作者の考えなどに思いを巡らし、「自分だったらどうするだろうか」「本当にそうだろうか」「自分だったらこう考える」と自問していくことを繰り返すことで、池上氏の言う「自分の思想の運動場」が形成されていくのだと思う。

  そして氏はその連載を以下の一文で締めくくっている。まずは運動場を建設するため、文庫に手を伸ばしましょう。学生諸君は間もなく長い夏休み。人生の思い出になる一冊と出合えますように」