酒井雄哉(千日回峰修行)(その1)

                   (延暦寺  大講堂)

 

2月26日

酒井雄哉大阿闍梨の「一日一生」は、先日のブログで紹介させていただきました。

(詳しくは、酒井雄哉(千日回峰修行)(その1)参照)

酒井大阿闍梨の話をもう少し聞きたくて「続・一日一生」(朝日新書)も読んでみました。以下は、同書からの抜粋と私の感想です。

 

<一日一生>

朝起きて目を開いたら、今日もちゃんと息してるなあ、ありがとうございましたって、仏様に対して感謝の気持ちでもってね、「今日はまた新しい人生が始まった。一日頑張りましょう」ってやってたらいいんだよ。

(私の感想)

まったくその通りだと思います。私の場合は、末期がん患者という立場から同じ考えに至りました。つまり、先のことを考えると、体調の低下と人生の閉幕に近づくことが自明です。そこからは、下向きの気持ちしかでてきません。

それゆえ、「明日のことは気にしない」「今日在ることに感謝する」「今日を、旺盛な生命力で、楽しむ」と言う結論に至りました。つまり、「今日」が始まりであり、全てなのです。

 

<生きることの意味>

「お前は、何のために生まれてきたのか」

初めてそう問われたのは、ほっつき歩いていたぼくが、家出同然で比叡山を訪ねて来て、1か月ほど住み込ませてもらって坊さんのまねごとをして、家に帰るときだった。

(私の感想)

誰でも、どこかで出くわす問いかけです。青年時代、あるいは壮年時代に出くわすことが多いのではないでしょうか。私の場合であれば、教員になってからは、それぞれの場で自分なりに一生懸命にやってきたと思いますので、この問いかけは薄くなったと思います。

 

<千日回峰行に向かった理由>

お坊さんと言っても、お寺には様々な仕事がある。ぼくなんかは何もやることがないんだよ。昔から頭悪くてろくに勉強してこなかったから、人に教えるなんてとんでもない。事務ができるんだったら、娑婆に長いこといたんだから、サラリーマンになったり、お店をしてたら繁盛していたでしょう。能力がないから何をやってもうまくいかなくてウロウロしてたんだから。

色々考えて、最後に残ったのは体が丈夫だっていうことだった。それで行の道が一番ええのかなと思った。

(私の感想)

酒井大阿闍梨は、非常に謙虚に自分のことを述べています。その飾り気のなさが悟りの一つの面だろうと思います。

また、自分の特質を生かして、厳しい修行を選んだ心意気には、秘めたるものがあったと推察します。

千日回峰行を選び、そこに進む姿勢から、多くの学ぶべきことがあるのではないでしょうか。

 

<堂入り修行>

千日回峰行のなかで、もっとも厳しいのが、七百日目の回峰行を終えてからの「堂入り」だな。九日間、断食、断水、不眠、不臥で不動明王の真言を10万遍唱えるわけ。

堂入り中は、水を一切飲んではいけないけれど、五日目になると、一日に一回、うがいを許される。うがいの水はおいしく感じたね。でもその水はあくまでうがいの水だから決して飲み込んではいけない。

(私の感想)

9日間、横になったり、座ったりすることなく、断食、断水、不眠で真言を唱え続けるというのは、人間の領域をはるかに超えています。よくぞ生きているなあ、というのが率直な感想です。

 

<回峰行を2回した訳>

千日回峰行が終わるとお弟子さんを育てるとか、学僧になるとか考えるんだけれど、ぼくなんかそんな学識も乏しいし、そういう柄でもないしな、それだったらもう一度回峰行をやっても良いのとちがうのと思ってね、それで二回させてもらった。

二千日の回峰行を終わって、皆に感想を求められるんだけれど、やっぱり何だったのかって、わからない。終わったというだけのことなんだな。

(私の感想)

二千日の回峰行を達成したのは、延暦寺の歴史においても酒井大阿闍梨を含めて4人です。

二回の千日回峰行の感想を聞かれて、理屈を言わず、「何だったのかって、わからない」と言うところに飾り気無く、単純さに徹した酒井大阿闍梨のこころを感じます。

 

<病気の効用>

できれば避けたい、めんどうだなと思うことって、人生にはいろいろある。病気もそうだよ。でも、病気になるのも命のありがたみを感じたり、自分が生きているという実感が湧いたりする。仏さんが自分を見つめる何かを教えているかもしれないよ。

(私の感想)

私も「末期がんで余命2年」と告げられたことで、自分のこころの有り様が変わりました。第一は、今まで多くの人にお世話になったお陰で、今日の自分があるという感謝の気持ちが強くなりました。

第二は、限られた余生を、一日ずつ大切に生きようという気持ちになりました。

 

<死への心構え>

ジタバタしても、死ぬときは死ぬ。なるようにしかならないんだもの。自分はやるだけやった。がんばるだけがんばったと思ったら、あとは仏さんのはからいにまかせていればいいんだね。

(私の感想)

おっしゃるとおりだと思います。まな板の上の鯉です。

私としては、「いつでも迎えの車が来れば乗りますよ」というところです。

 

<戦争>

熊本県人吉の予科練に入隊して、半年間訓練して、それから特攻隊の基地のある鹿屋飛行場へ配属された。

ぼくと同じくらいの若い人たちが、機体に爆薬を積んだ特攻機に乗って次々に死んでいった。ぼくよりずっと優秀で、人間的にも素晴らしい人が次々に命を散らしていったんだよ。なんて惜しいことをしたものだろう。戦争はむごいな、むなしいものだと思ったね。

(私の感想)

特攻隊を目の当たりして、戦争の残酷さ、虚しさを感じたというのは強い実感だろうと思います。

戦争(戦闘)は、世界中で今も続いていますが、人間の最も愚かな行為ではないでしょうか。

 

<今何をするのか>

今何歳でも、たとえ人生の最後の瞬間であっても、「いま」自分は何をしてるのか、「これから」何をするのかが大切なんだよ。誰にとっても人生は一度、一瞬、ほんのわずかの時間なのだから。いただいたこの大切な命に感謝して、一生懸命がんばらなかったらいけないのとちがうかな。

(私の感想)

「いま」ということを、私の物差しでは、「今日」と置き換えて、生きる単位としています。

感謝の心を元にして、一生懸命に生きることが大切だと思います。