『Enter The Dragon』ブルース・リー「Don't think.Feel!」和訳 | Football, Guitar & Music

Enter The Dragon
(ドラゴン登場)

【話している途中、ラオが向こうから歩いてくるのに気づく】

Lee: Lao’s time.
リー:「ラオの時間だ」

【ラオが意気揚々と歩いてくる。期待のこもった表情。「(ありがたい教えを受けられるんだろうな、ふふ)」】

【二人で、武術家の挨拶をし、リーが口火を切る】

  • ブルース・リー主演映画『エンター・ザ・ドラゴン』の、この有名な場面。自分なりの和訳をするときに、参考書としたのは『秘伝 截拳道への道』(ブルース・リー著、コンコルド東通)です。手に入れようとしたら、通販サイトで10万円!。すっかり廃刊になっているとはいえ、そんな高額なものを手に入れられる訳もなく、悩んでいました。でも調べてみると、国立国会図書館にあることを見つけた。しかも、デジタル閲覧サービスがあるという。早速オンラインで会員になると、見事に閲覧することができました。自宅のプリンタでA4サイズに印刷すると、ちょっと文字が小さめだが、充分に読める資料となりました。国立国会図書館に感謝です。
  • 以降の文章の中に「p20」などと入っているのは、何ページ目に載っているのかということです。


Lee: Kick me.
リー:「オレに蹴りかかってこい」

  • リーは、なぜ「蹴ってこい」と言ったのだろうか?上記の『截拳道への道』を参考にすると「実際の格闘は決して不変ではない、それは多分に『生きている』のであるp14」「格闘は決して一定ではない、それは瞬間から瞬間へ変化しているp23」「真の格闘を理解するためには、きわめて単純かつ直接な方法で接近することである。理解は感情を通して、瞬間瞬間に関係の鏡の中に生じるのである。自分自身を理解することは、関係の過程を通しておきるのであり、隔離からではない。自分自身を知ることは、他人とともに行動する自己を勉強することなのだp20」と、ブルース・リーは書いています。
  • 弟子とも言えるラオは、格闘を学びたい・成熟したいと思っているのでしょう。そんなラオとの関わりに、その瞬間瞬間を通して武道の真理を理解させようとしたのではないでしょうか。「成熟とは、自由表現による自己探求によってのみ可能p23」ともあり、ラオに「蹴ってこい」と、ラオなりの武道の自由な表現を促したのだとも思います。

 
【「(えっ?)」いきなりの言葉に、戸惑いの表情となるラオ】

Lee: Kick me.
リー:「蹴ってこい」
【と、念を押しながら、ファイティングポーズを構える。気合いの入った表情で、準備万端という様子に】

  • 『截拳道への道』は、「心の章」から始まる多くの章に分かれています。メンタル面の内容だけでなく、具体的な技術面の記述が大部分を占めます。その中で相手との距離(間合い)についての項目もあり「適切な格闘距離を維持することは、戦いの結果に決定的な影響を与えることになるので、必ずその習慣をつけることp126」「すべてのファイターはまず自分自身の格闘距離を知らなくてはならないp126」とのこと。さらには、「対抗者のスピードに合わせるように調節されたスピードのことを『カデンス(特定のリズム)』と言うp61」「理想的には、闘士は自身のカデンスを相手に押しつけることを常に試みるべきであるp62」とあります。
  •  リーがファイティングポーズを構える場面は、これらのことが描かれています。リーが距離をとり、ラオに優先してカデンスをとらせてタイミングを合わせているようです。
  • 映画の中では、ラオが先に動いて蹴っていますが、ラオにとっては良い戦い方では無いようです。というのも、「多くのファイターは先をとることを避けようとする。従って、相手に先をとらせ、攻撃してくるように誘うなり強制するなりができることが非常に重要なことであるp70」と書いてあります。具体的に相手の攻撃を誘う方法は、フェイントであり「相手から特定の反応を誘い出す目的で行われる行為のことであり、フェイントに非常に関連があるp70」と、カデンスのことも含め「意識的に自分の動作のカデンスを変化させることによって成功することがある。フェイントの動作のリズムを故意に定め、相手がその偽りのカデンスに従うようにそそのかされるまで続けるのであるp62」とあります。
  • このフェイントについては『截拳道への道』全編を通して記述してあります。格闘において、非常に重要なことだと考えているのでしょう。実際『エンター・ザ・ドラゴン』の中でも、ブルース・リーがフェイントを交えながら戦う場面はいくつもあり、自分の考えに合わせて武術の表現をしていることが分かりました。
  • さらに付け加えるなら、姿勢や防御の構えについても記述があります。「八つの基本的防御姿勢(左右の構え)p37」として、リーが描いたイラストともに紹介されています。「防御の構えは何よりも『正しい心構え』の足構えを用いなくてはならないp29」「適応される姿勢は常に動作が円滑であることを保証し、最大の落ち着きと緊張緩和とを可能にする姿勢でなくてはならないp29」とも。「屈曲した膝、前屈みの胴体、わずかに前方の重心、および部分的に曲げられた腕は、多くのスポーツの『準備の整っている』ことの特徴であるp32」。そして「真の闘士は瞬間的に、四方八方、どの方向へも敏捷に動くことを要求されるp128」。また、「闘士の足の裏は全部床につけられることはなく、強いバネであるかのように趾根部で地面を触れ、状況に応じて、加速も減速もできる準備が整っているp129」、具体的には「大きく一歩動くかわりに、同じ距離を小さく二歩で動くように、こころがけることであるp132」と、足さばきやフットワークについても書かれています。
  • そして、リーの構えは、右手と右足が前になっています。「闘う際には自分の最も強い側を前方に保つべきであるp87」「後手は前手を補足するためにあり、己の攻撃を防御のきいた攻撃にするp88」。前手のパンチは「攻防の両方に利用できる武器であり、相手の複雑な攻撃をただちにストップし阻止することができる」と、ハッキリ書いています。さらに「攻撃しながら防御することを忘れないこと!p154」とも。


【「(蹴ってもいいんですか?ほんじゃまぁ、ホイッ)」と、ラオが蹴りを試みる】

Lee: What was that? An exhibition? We need emotional content. Try again.
リー:「それは何だ?見せ物か?オレたちは気持ちを込めなきゃいけないんだ【と、頭を指さす】。もう一度やろう」

  • この「emotional content」は、とても大切なことだと思います。「トレーニングは物体を取り扱うのではなしに、『人間の精神』および『人間の感情』を取り扱うのである。個人の『精神的』および『肉体的な調節』である。それは精神と力の訓練、肉体の鍛錬を暗示するp26」「必要なときにだけ発破をかければよいのではない、真のファイターは常に己のすべてを投入する人間のことであるp66」とも記しています。
  • また、リーは頭を指さしながら話しています。肉体を鍛えるだけでなく、知的に考えて闘いましょうと勧めてもいます。「ファイターにはおよそ二種類があり、ひとつには『機械的な』ファイターがあり、もうひとつには『知能的』なファイターがある。機械的なファイターは、その技術と戦術が技の機械的な反復、自動的な練習によって得られたもので、知的に『何故、如何にして、何時』を問うことなしに身につけられたものであるから、一連の交戦において常に同じ形式をとるのである。反面、知的なファイターは、相手を扱うのに適する手段を選ぶためには己の戦術を変えることに躊躇しない。すべての選択された突きや蹴りは、相手のテクニックや格闘方法に適応するのであるp149」。だから、ラオとしては「おめえは、頭がわりいんだよ」と言われてるとも思ったのかもしれません。


【「(カチーン、馬鹿にされた感じ!じゃあ、やってやるよ!)」と、ラオが再び蹴る。もっと攻撃的な表情と、激しい動きで。しかし、リーが険しい顔で近づいてくる。「(やべぇ、怒られる・・・)」】

Lee: I said "emotional content". Not anger! Now try again... with me.
リー:「オレは気持ちを込めろと言ったんだ。怒りじゃない!【と、ラオを睨みつける】さぁもう一度、オレと一緒にやるぞ!」

  • ここで大切なのは「with me」という言葉です。映画やTVの字幕・吹き替えでは、この「with me」は触れられていません。「emotional content」が必要なのはラオだけでなく「We」と言っているし、「気持ちを込める」「精神を集中する」こともラオだけじゃなく、二人ともがやらなきゃいけないことだとリーは言っています。
  • 「取り囲む(古典的な)様式の中に隔離されてしまうと、相手が実際に何をしているかを見ようともせずに、自身の叫び声をきくばかりであるp16」「相手に順応するには直感を要するp16」とも話しています。
  • 最初の「Kick me」場面でも紹介しましたが、格闘は生き物である・真理は生きていると考えているリー。教える者と教えられる者という立場ではなく、己のすべてを投入することを大切にしているのかもしれません。そして「相手を観察する」ことも大事だと説くなら、当然に蹴りを受ける側もすべてを投入して、ラオに観察させようとしているのでしょう。


【たしなめられて、下を向くラオ。しかし、いかにも気持ちが込もった表情に一変し、細かいステップを踏み始める。再度、蹴りを入れる。成功したようだ】

Lee: That's it! How did it feel to you?
リー:「そうだよ!【と、笑顔で近づき】どんな感じがした?」

  • 「どんな感じがした?」という言葉は「emotional content」と並んで、大切だと思います。リーは、この『截拳道への道』の冒頭で、「武道において悟りをひらくということp8」と書いています。それは「胴体と手足が、それらが授けられた指図に従って自然に動くようにするのだp8」「動は水のように、静は鏡のように、反応はこだまのようにp8」と示しています。
  • さらに「私は動いていると同時にまったく動いていない。私は、永遠に揺れ、うち寄せる波の下にある月に似ている。『私がこれをしているのだ』ではなく、むしろ『これが私を通して起こっているのだ』あるいは『それは私のためになされているのだ』という受け身的な悟りである。自己の意識は、すべての肉体的動作を寸分の狂いなく遂行するための最大の障壁であるp8」とも。
  • 「自然に動く」というのは、考えてというよりも「反射」に近いものかもしれません。「条件付けは、神経組織内における行動のパターンをつくり出すが、一度このパターンが確立されたあとは、その刺激が存在するだけでそれに対する特定な行動を生ずるようになるのである。このような行動は即時にほとんど無意識に行われるのであり、それこそ反撃動作に欠くことのできない要素となるp162」と、行動心理学での言葉を記しています。
  • さらに「ファイティングは、手や足で行われるのではなく、頭脳で行われるのである。実際に格闘しているとき、自分が如何にして闘うかを考えるのではなく、相手の弱点や弱み、あるいは可能性のある隙やチャンスについて考えるのである。ファイティングは、技の実演が自動的になり、大脳皮質は作戦と判断に解放されてこそ真のファイティングになるのであるp162」とも綴っています。
  • 「考えて動くよりも、練習を繰り返して、相手を観察し、反射的に体が動く」ことが理想だと説き、だからこそ「どんな感がした?」と問いかけるのだと思います。
  • でも、実は『截拳道への道』には「作戦」という項目もあります。「作戦、あるいは方策は、相手に対する鋭い観察と分析、加えて己の手段、行動の賢明な選択に基づくものであるp169」「同等な肉体的技能を持つファイター同士が闘う場合には、知能的に勝れている方に勝目があるp171」とし、「作戦において非常に重要なことは、相手にとって不得手な手段で立ち向うことであるp171」とも書いています。


Lao: Let me think…
ラオ:「ちょっと考えさせてください・・・」

【リーがラオの頭を叩いて】

Lee: Don't think. FEEL! It is like a finger pointing away to the moon.
リー:「考えるな、感じるんだ!【空を指さして】それは月をさす指のようなものなんだ」

【ラオは、リーの指ばかり見ている。再び、ラオの頭を叩いて】

Lee: Don't concentrate on the finger, or you will miss all that heavenly glory. Do you understand?
リー:「指に集中するんじゃないんだ。素晴らしい栄光を逃してしまうぞ。分かったか?」

  • ここが最も有名な場面でしょう。ただ「FEEL!」のセリフが注目されるばかりで、それに続くセリフこそ注目するべきだと思っています。しかし、解釈は難しくて、人によって違ってくるでしょう。私なりの解釈だとご理解ください。
  • まず、月の例えがいくつかあります。先ほども「永遠に揺れ、うち寄せる波の下にある月に似ているp8」がありました。他にも「心が不動性を持つ時、月は流れの中にある。その流れの中で月は動きやすく、同時に不動である。水はいつでも動いている。しかし月はその中で不動を保つのである。心は多様な状況に対する中で動く。しかし、それ自体は平静を保つのであるp185」といいます。「截拳道は、部分性や局限を嫌う。全体があらゆる状況に応じられるものであるp185」と。続いて「緊張せずに用意できていること、考えることなく、ましてや夢みることなく、固くなっていず、柔軟であること。どんなことにでも対処できることであるp185」「JKD(截拳道)人は、その心をいつも空の状態に保つべきであるp185」とも説きます。
  • さらに「全体を見なさい」と説きます。川の流れの上では、月は揺れ動いている。でも、頭上に輝く月は動いていない。どちらの月も見なさい。人の心も同じで、状況の中で揺れ動く。しかしながら、お月様のように自分の心も動かないようにしなさい、どちらの心も大切なんだと言いたいのではないでしょうか。
  • リーは、真理、真実、事実、解答という言葉を使って、「武道における悟り」を話しています。先ほども書いたような「練習を繰り返して、相手を観察し、作戦を練り、反射的に体が動く」境地にいたることが、「武道における悟り=月=素晴らしい栄光」なのかもしれません。
  • もう一つ大切なことは「指」です。リーは「それは月をさす指のようなものなんだ」と例えています。「指」と「指さすこと」では、解釈が大きく変わってくるでしょう。ただ、ラオが指にばっかり注目してしまったことを諫めているので、「指」ではなくて「指さすこと」を挙げていると考えました。「思考は自由をくれない。すべての思想は部分的であり決して全部になることはできない。思想は記憶に対する反応であり、記憶は常に部分的であるp20」「心は元来活動をともなわないものであり、その道は常に思想をともなわないことであるp20」「思想は存在せず、単に『こうであること』のみが存在するのであるp20」「そこには行為なしに行為の状態があり、経験者も経験もなく経験する状態があるp21」と言います。
  • 「截拳道においては、あらゆる技術は忘れられるべきp183」「習得されてきた知識や技術は、忘れられなければならない。学ぶことは重要であるが、その奴隷になるなp183」とも言っています。
  • 「月をさす指」でいうと、指している状態が大事だと。指は思想であり、思考であり、経験であり、記憶であり、知識であり、技術である。指にとらわれるのではなく、自分が思い描く理想=月に向かい続けることが大切なんですよ、つまり「指さすこと」が大切と説いているのではないでしょうか。


【ラオはうなずいて下を向く。三たび、ラオの頭を叩く】

Lee: Never take your eyes off your opponent... even when you bow.
リー:「相手から目を離してはいけない、例えお辞儀するときでもな」

【ラオは再びお辞儀をし、今回はリーを見続けている】

  • 『截拳道への道』には「視覚」という項目もあります。「視覚認識を非常に素早く行うことを覚えることは基本的な初歩であるp55」「反応時間または攻撃スピードに手間どる人間は、この遅れを素早い視覚で補わなければならないp55」と書いています。しかも、「中央視覚」「周囲視覚」という言葉も使います。「格闘では、弟子は周囲視覚を役立たせることによって、注意を全表面に拡張することを覚えなくてはならないp56」とあり、いわゆる周辺視野で状況を見て確かめることの重要性を話しています。


Lee: That's it.
リー:「そうだ」

【ラオが歩いて去り、映画のオープニングが始まる】

  • この「ラオの時間」の場面は、あの有名な「アチョー」オープニングの直前であり、リーにとっては相当に大切にしたい場面のようです。今回のセリフを和訳するために読んだ『截拳道への道』。読んで驚いたのは、現役のプレーヤーでありながら、理論書を書いていることです。例えば、サッカーのメッシや野球の大谷が、トッププレーヤーでありながら理論書も書いているという感じでしょうか。しかも、運動科学、心理学、禅までを組み込んで・・・。
  • 改めてブルース・リーの偉大さを学びました。
  • 私ごとですが、趣味でフットサルをしています。有名なチームに入っている訳でもなく、レベルの高いリーグに参加もしていない、そこらの草フットサルプレーヤーです。そんな私でも、このブルース・リー先生(あえて先生)の言葉を学んでからは、プレーが始まる前に「気持ちを込めるんだ」とつぶやいたり、自主練している時に月を指さしたりと、態度が変わってきています。この参考書は国会図書館で借りられるので、興味がある方はぜひ読んでみてください。
  • また、実際の映像に字幕をつけたものをYouTubeに公開しています。良ければご覧ください。
  • しかし、能登半島地震の影響なのかアップロードできず。かわりに旧ツイッターに上げた動画を紹介します。

 

 

 

参考・引用文献
『秘伝 截拳道への道』ブルース・リー著、風間健・灰田匡江訳、コンコルド東通刊、1976年発行