3.11は私は長野県長野市

NHK局内で編集の追い込み作業を

していました。



あの日は金曜日、20時からの生放送で

ゲストを呼んでのコーナーを企画していました。



ほぼ2日徹夜が続いてようやく編集も佳境。

テープに吐き出し作業をしていると・・

何やら立ちくらみ?

今日こそは寝よう・・・

と思っていたら、けたたましいサイレンが。



そう、東日本大震災です。



長野からも東日本へディレクター

や記者が派遣されていきました。



上司が

「お前にも行ってもらうかもしれないから、

とにかく今日は帰って寝ろ。」と。



夜中の1時頃に一端帰宅。




そして、

それから数時間、

3時59分。

長野県北部を震度6強の地震が襲いました。



仕事の道具をもって会社に向かうと

「現場に行け」との指示。

緊急報道の準備をして、いざ震源地に近い

栄村へ。

現場に行く途中何度も「緊急地震速報」が

鳴り響いていました。



村に入るための唯一の道には亀裂が。

警察が来る前まで誘導や注意喚起なども。



栄村は、1945年には積雪日本一も

記録したことのある雪国。

人口も2000人ちょっとの、本当にのどかな

日本の原風景が未だに残るような村です。

しかし二日間で震度5弱以上の余震に4度も

見舞われ、全壊や半壊の被害も。



村につながる線路が宙ずりに・・・





ですが、普段からの「結い」の精神と

ご近所付き合いのおかげか、

誰一人として家に閉じ込められたり

避難所に出てこられない人がいなかった

のが、栄村です。



東日本の被害があまりにも甚大だったこと

福島原発の事故があったこと、

さまざまなことが重なって、

なかなか報道されずにいた栄村。



地元の皆さんは

憤りを感じながらも「東北のことを

考えたら、俺たちは何も言えねぇ。」

と。



被災者でありながらも、

言いたいことを、助けの声を

あげられないジレンマと葛藤している皆さんが

いました。


豪雪地帯ならではの問題が。

被害状況が雪に覆われており把握できない、

そして復旧工事にとりかかれないという問題です。

11月には雪が降り5月でもまだ

雪が残っているような場所です。

雪が解けてみると・・・・

皆さんの生活を支え担ってきた畑に大きな被害が。

地割れ、水路の損壊。コメの作付けが2年にわたって

できないところも。

一年のうち、実際に工事などができる期間が

非常に限られている事も地域の皆さんにとって

悩みの1つでした。

また、過疎化が進んでいる集落には

「住宅再建もめどがたたない。作付けもできない。

いっそうのこと、隣町にうつる」

という動きも。

出るひと、残る人、双方にとって苦しい時間

だったと思います。


NHKでディレクターをしていた時代に、

お世話になった皆さんに久しぶりに電話を

しました。

「米送ってやるからな!」とまで。

そして

「いやぁ、TVに出るたびに周りの人に

自慢してたんだよ!


本当に有難い限りです。


一緒にご飯を食べさせてもらったり

きのこや根曲りだけをとりにいったり

近所の銭湯にいったり。


また皆さんの笑顔に会いに行きたいです!