『コンピューターはクリスマスデートの夢を見るか?』from フェザータッチオペレーション | 仕事とマンガと心理学

仕事とマンガと心理学

心理カウンセラーが語るマンガと小説についてのブログです。
心理学でマンガをみるとオモシロいので、それを伝えたくて
ぐだぐだお送りしますので、楽しんでくださいね!

こんにちは、プロフェッショナル心理カウンセラーの織田です。

今日のタイトルはフィリップ・K・ディックのできの悪いパロディです。

 

 

「フェザータッチオペレーション」 柴田 昌弘

 

ごくごく平凡な大学生の慎平くんの下に

16歳の財部早紀ちゃんが転がり込んできます。

おじいちゃんの遺言で

慎平くんにお世話になれと言われたので・・・

びっくり仰天の慎平くんですが

まあなし崩しに一緒に暮らすと

生活能力まるで0。

「普通」知っていないとおかしなことを

何一つ知らない。

ものすごく頭がいいのに、常識は0。

 

実は、本人も知らないことですが

早紀ちゃんは人間ではありませんでした。

天才科学者のおじいちゃんは

事故で脳に致命的なダメージを受けた孫娘に、

自分が開発した巨大人工知能と結合させます。

 

つまり、身体は女の子なんだけれど

頭の中身が全部人工知能。

大部分は別のところにあり

セパレート型になっているために

早紀ちゃんは、いつも黒い大きなスポーツバックを

持ち歩かなければなりません。

 

でも、早紀ちゃんは自分の正体を知らないので

16歳の年頃の女の子らしく

おしゃれはしたいがバックはダサい。

 

慎平くんがモノローグでつぶやきます。

(記憶なので正確ではないと思うけれど)

 

あんたは天才科学者かもしれないが

16歳の女の子の気持ちは

わかっていない。

あの年頃の女の子が

あのバックを持ち歩かなければならないことが

どれほど苦痛なことか。

 

物語そのものは、

前半は、世間と常識を知らない早紀と

それに振り回される慎平くんのどたばたコメディ、

後半になってくれば

財部が開発したはずの

スーパーコンピューターを狙う

超巨大企業との

絶対に釣り合いが取れていない

対立サスペンスになっていくんですが。・・・

 

それは、もう読んで楽しんでいただければ

いいのですけれど

ここで取り上げたいのは

 

アンドロイドは電気羊の夢をみるか?

 

なのです。

 

映画「ブレードランナー」の原作、

フィリップ・K・ディックのSFのタイトルがこれ。

環境破壊が進み、ほとんどの動物が死滅している地球では

動物は全てアンドロイドであり

それをペットとして飼っているのがステータス。

わずかに残った「本物の生き物」は

虫一匹であっても大事に保護されている。

 

作業用に人間型のアンドロイドももちろんいて

中には自分がアンドロイドであることすらも

わからない=自分は人間だと思っている

アンドロイドもいるぐらいです。

 

映画ではハリソン・フォードが演じる役の主役は

違法のアンドロイドを見つけて

廃棄物として処理するハンター。

でも、人間と区別がつかないアンドロイドたちに出会い

彼の心が揺らぐのです。

 

アンドロイドは電気羊の夢をみるか?

 

これは、人間たちがやっているように

機械仕掛けの動物を「飼って」喜ぶような

共感性をアンドロイドも持つのだろうか?という問いで

人間性とは何か?を問うた作品なのです。

 

つまり、さっき上げた慎平くんのモノローグ。

「16歳の女の子」は

人口知能なわけです。

人口知能も「おしゃれ」を気にし

恋愛をするんだろうか?

 

フェザータッチオペレーションでは

人間として暮らせるほどの

高性能のコンピューターは

人間型の中には納まらないので

「身体」=早紀

「頭脳」=スパコンの

セパレート型になっています。

 

後半、身体である早紀ちゃんの制御だけでは

「自分はもったいない、

これだけのことしかできない自分じゃない

自分はもっとすごいことができるんだ」と

スパコンが反乱を始めます。

けれど、自分が人間じゃないと

恐慌状態に陥った早紀ちゃんが気を失うと

スパコンの方も「動けなくなる」。

 

財部博士は、早紀ちゃんを活かすために

あんたを創った、

早紀とあんたは一心同体なんだと

慎平くんは言います。

 

まあ、物語の最後で

結構このスパコン、技術発展を上手く使って

早紀ちゃんと共存しながら

とっても平和に

世界征服ぐらいしちゃいそうなんですけれどね(笑)

 

こういう物語は楽しく読んで笑って

そして考えちゃう。

 

人間って、何によって「人間らしく」なっているんだろう?

生身だから人間らしいんだろうか。

ディックが描いたように、それは共感性というところなんだろうか。

先日ご紹介した「プルートウ」では

ロボットたちは家族を持ち

涙を流し、誰かをいつくしむことまでやっている。

 

では、人間と非人間を分けるものは何か?

そもそも、それは分けるものなんだろうか?

人間らしさとは何か?

 

人と見分けがつかないほどの

アンドロイドやロボットが

いつ頃できるかわからないけれど、

ロボットとかアンドロイドとか

私の大好きだったサイボーグ009とか

(ここだけ固有名詞♪)

人間って、何をもって人間なんだろうっていう問いは

ずいぶん前から問われています。

 

古くはフランケンシュタインの怪物からかな?

(フランケンシュタインは怪物をつくった科学者の名前です)

人に創られた亜人間は

人なんだろうか?

そもそも、どうしてこんなに「人か?人じゃないのか?」に

人はこだわるんだろう。

 

そこにいる、っていうだけなら

何でできていたって

みんな地球の子だよ、としておいてもいいのにね。

実際、このフェザータッチオペレーションを読んでいると

人間と自我を持ったコンピューターって

結構付き合えるんじゃないかと

楽観的になれるから。

(これは、月は無慈悲な夜の女王を読んでいてもそう思います)

 

地球の子っていうことにしておこう・・・

と、今度は

宇宙人は電気羊の夢を見るか?

になるんだろうな。

 

そう、人はどこまでも問い続けることを

やめられない。

「人間らしさってなに?」

「人と人じゃないものを分けるものは何?」

それは畢竟、何をもって「自分」とするのか

アイデンティティの揺らぎに

関係あるのでしょう。

 

人は、どうしても自分にこだわり

自分を揺らがせたくない。

 

みなさんはいかがですか?

電気羊の夢を見ますか?