こんにちは。
弁護士の細永貴子です。
訴訟の準備書面を作成していて感じたことを「責任」という切り口でまとめます。
セクハラの損賠償請求訴訟を原告の代理人として何件か担当しています。
被告は、セクハラをした行為者と、雇用主の二者とすることがほとんどです。
雇用主は、セクハラ防止措置義務を負っており、セクハラが起きない社内環境づくり等の事前措置に加え、セクハラ事案(ないしその疑い事案)が発生した後において、事実関係の迅速な確認を行い、事実の有無に応じた適切な措置や再発防止策を取ることが法令上の義務です(男女雇用機会均等法11条参照)。
通常、訴訟を提起する前に行為者及び雇用主に対し、セクハラを受けて精神的苦痛を被ったことなどを理由として、損害賠償や職場環境の改善等を求める通知を出します。
(セクハラが原因で病気になり休業を余儀なくされている事案では、合わせて休業補償等を求めます。)
しかし、行為者がセクハラに該当する言動があったことを認めることは極めてまれで、認めたとしても、ごく一部の限定された範囲です。
「冗談のつもりだった」「(相手に好意があって)相手も自分に好意をもってくれていると思ってしまった」「そこまでのひどいことはしていない」などの否定・自己正当化の返答が来ます。
雇用主からは「個人的な問題であり会社は関係がない」「会社は適切な対応をしたので責任はない」「(被った被害について)そこまでの損害を生じるほどの出来事ではない」などの責任逃れ・正当化の返答が来らことが多いです。
(※認めて対応する企業もあることは、明記しておきますが、そういう態度に接したことは少ないです。)
こうした責任逃れ・自己正当化の言動を見ていて感じるのは、、もしかしたら、
自分の非を認めると罰を受ける
という集合意識があるのではないか?という疑問です。
もし、このような集合意識があるとすると、全く役に立たないどころか、社会が良くなるうえで有害であると思います。
私は、自身の経験から、進んで責任を取った方が清々しく心が軽くなり、よりよい人生を送ることができることを知っています。
自身の言動に素直に責任を取った場合、ついてくるのは罰ではなく償いです。
人に与えた損失を償うのは責任を取る上で必要なプロセスですが、それは人から強制されるものではなく、自ら進んで行う必要があります。
よって、裁判で負けたから賠償するという態度は全く責任を取ったことにならず、再発防止にもならず、根本的な解決にもならないような気がします(とはいえ、責任を否定されたら、被害者の損害回復のためには法的措置に訴えるしかない。)。
相手も合意の上で紛争を終わらせ、納得した上で責任を取ってもらうことを考えれば、たとえ訴訟になったとしても、できるだけ和解で終わらせることが最善であると思います(といっても、負けそうだからとか、負けるリスクを回避するためにする和解が大半であり、「責任」という観点でみると疑問は残ります。)。
裁判を経て被害体験に一度、終止符を打つことが、被害を受けた人の回復のプロセスにおいて必要であると今は考えています。
その後に続くのは「許し」のプロセスですが、許しは自分自身のために行うものであり、人から強制されるものではないことは、以下の記事で書きました。
許しの効果についても触れていますので、良かったらご覧ください。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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進んで責任を取ると、清々しい緑の中にいるような気分になれます!