29年前の今日の朝、阪神淡路大震災が発災しました。


私は午後の新幹線で大阪に帰る予定で、5時46分は東京駅近くのホテルで寝ていました。6時の始発に乗る予定だった友人から、そして、アメリカにいる姉から、「大阪ですごい地震が起きたらしい」と電話があったのです。


すぐに実家に電話をかけたら、何を言っているのかわからない母の声。話している最中にも余震が来ているようで、そして、そのうちに、電話が切れました。


その後は、テレビに映し出させる映像に息を飲むばかり。


連休明けでもあった17日。関西地方で、本日、骨髄バンクのドナーさんから骨髄移植を受ける患者さんがいるはず。骨髄は無事に輸送できるのか???いや、それ以前に、無菌室の稼働のための電気は???ドナーさんだって、17日におうちから出発される方もいるかもしれない。電車は動くの???次々と心配なことが思い浮かぶばかり。


まもなく、倒壊したおうちの下敷きになって亡くなった友人や友人の子供の訃報を次々と知ることにもなります。悲し過ぎました。


頭が混乱する中、大阪に帰った私は、〝私にできることをしてみよう〟と、まだまだガラス破片が風に乗って飛んでくる中、避難所に足を運びました。


一人のご高齢の女性が、「前開きのシャツが(支援物資の中に)ないんよ」と。肩が痛くて、腕が上がらない方にとっては、頭からかぶるシャツはとてもじゃないけれど、着ることはできない。。。確かに。。。


活断層の差で、線路を挟んで向こう側は、何事もなかったように普通の生活が営めています。スーパーに飛び込み、前開きのシャツを買い込みました。


ボランティア元年と呼ばれた阪神淡路大震災。その後も大きな地震が発災する日本。その経験から〈被災地でのニーズを考えながら行動をする〉というのが根付いてきたような気がします。


関西で1995年1月17日に白血病の治療をしていた方は、「白血病で死ぬとは限らんのやなぁ、とつくづく思った」と、のちにお話ししてくださいました。


そんなこんなを思い出す一日でした。


能登の方々も、どうか、お大事にお過ごしいただけますように。。。

当時はスマホもなく、また、被災地を写真に納める、という気持ちもなく。

今夕の新聞記事を勝手に転載します。