第二次世界大戦が終わり今年で76年。

以来、日本は一切他国と戦争をしていない数少ない平和国家となりました。

(2021年現在、昭和20年(1945年)以降一切戦争をしていない国は日本を含め僅か8か国です。)

 

76年。大変な歳月です。

大半の国の首脳(国家元首)が第二次大戦後生まれとなった現在、

戦後生まれの我々は、より正しく不要な感情を抱かず冷静に

あの戦争を知るべきかと私は思います。

そうすれば自ずと平和な世界に。そう信じたいです。

 

それには、やはり今に自らの体験を語り継ぐ戦争体験者の「お声」は大変貴重です。

 

本日ご紹介いたします東俊賢さんは、まさにその生き証人とも言うべくお方です。

(上記お写真、チラシは権田猛資さんのページより拝借)

 

私が初めて東俊賢さんにお目にかかったのは昨年2020年10月。

キッカケは母校東洋大学の棚沢直子名誉教授からの1通のEメールでした。

 

棚沢教授より、「戦中に父(三木忠直氏)たちのもとで桜花の生産に台湾少年でただ一人携わった方で、父の生前、逗子の自宅にご訪問くださり、父と一緒に撮った写真が載せてありました。もしあなたが東さんを見つけて下さったら連絡を取ってお目にかかりたいのです。」とのメールを頂きました。

 

棚沢教授のお父様は、戦前・戦中には陸上爆撃機「銀河」、特別攻撃機「桜花」を設計し、戦後は平和社会に貢献すべく、0系新幹線、小田急ロマンスカー、湘南モノレール等多数の鉄道を設計されたお方です。

(三木忠直氏についてはまた改めて詳しくご解説いたします。)

大変尊いお役目。台湾に住んでいるからこそ出来る行ない。

早速、私は日頃お世話になっております同郷の先輩で元台北市日本工商会事務局総幹事をお勤めになった山本さんに尋ねました。

 

早速山本さんより、

「東さん面識有ります。最近東さんは権田君とよく会っているらしいので聞いてみます。」と

お返事を頂きました。

私は恩師へ恩返しが出来るという思いと、台湾少年工をご経験なさった方とお目にかかれるという緊張感を抱きました。

早速、数日後に東さん、権田さん、山本さん、髙井の4名でご挨拶させていただく機会を頂きました。

(2020年10月撮影。台北市内の某レストランにて)

(東さんと山本さん)

(東さんの著書とサイン)

(三木忠直氏と東俊賢氏)

 

東さんは今年91歳。とてもそのお年に見えない若々しいお方で、

iPhone11をスイスイ使いこなし(ちなみに私はiPhone7ですw)、SNSもお手のもの。

権田さんのYoutubeチャンネルにもご出演され、精力的な毎日を送ってらしゃいます。

(権田猛資さんのゴンタケチャンネルより)

以来、何かと私の事を気にかけて頂き、お時間が合いますと台北市内でお食事をご一緒させて頂く間柄です。

(東さんの寄稿された新聞記事より)

 

東さんに私はいつも勇気を頂いています。

これらもお元気に、貴重なお話を語り継いで頂き、我々戦後生まれの

台湾人、日本人に勇気と精神を与えて頂きたいです。

 

ご縁をお繋ぎ頂きました、山本さん、権田さんにこの場を借りて御礼申し上げます。

そして、感染症収束の暁には、棚沢教授との面会が叶いますようお手伝いさせてくださいませ。

私と東さんと棚沢教授のお約束です。

 

 

東俊賢(とう しゅんけん)さん

1930年(昭和5年)日本統治時代の台南で生まれる。

台南商業学校に在学中の1944年(昭和19年)14歳で台湾少年工に志願し、内地(日本)へ渡る。

戦前・戦中には陸上爆撃機「銀河」、特別攻撃機「桜花」の製造に

戦後台湾へ戻り、師範学校を経て、教員に。

その後、技術者として電子産業界で活躍。現在、ご自身の経験や、台湾の歴史について執筆、日本の大学などで講演を行ったり、歴史の語り部として精力的に活動している。

 

権田猛資(ごんだ たけし)さん

拓殖大学卒業。バシー海峡戦没者慰霊祭・廣枝音右衛門氏慰霊祭事務局長。一般財団法人自由アジア協会理事を務める。

戦争中、日本統治下だった台湾から「日本人」として従軍した、台湾人元日本兵・軍属らへのインタビューをYoutubeで発信する。

拓殖大在学中の2011年1月、初めて訪れた台湾で、日本語教育を受けた台湾人のお年寄りに出会う。

卒業後、台湾に留学し、お年寄りの元に通い始め、聞き取りは100人を超える。

2019年9月、Youtubeに「ゴンタケ台湾Channel(チャンネル)」を開設。80〜90代の台湾人11人の話を日本語で配信している。

 

権田猛資の台湾ノート