白勢長屋(池田邸)リノベーション計画 | 遠藤麻理Fan

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白勢長屋池田邸は、毎月、建物の前を通り、見ています。しばたまち守の会のFacebookも毎日見ています。投稿は、たまにしか更新されていませんが。
令和4年6月25〜26日、「しばた寺びらき」の期間中、白勢長屋池田邸が一般公開されたので、行って来ました。そのレポートを最後に追加しました。
YouTubeの新潟県公式チャンネルの「空き家活用のおはなし」で遠藤麻理さんが訪れた場所を聖地巡礼として巡っています。4ヶ所目は新発田市の白勢長屋(池田邸)です。
新発田と言えば、二十数年前から定期的にまちあるきをやっている所です。これは新潟市よりもずっと早いです。僕は第一回から毎年参加しています。寺町にあるお寺を巡り、郷土の偉人の墓を見たり、新発田城の堀や櫓、門などがあった場所を古地図を見ながら巡ったり、市内にある様々な石碑や石仏を巡ったり、市内に残る古い家を巡り、その家の中に入らせてもらったこともありました。囲炉裏がある家もありました。
今もまちあるきは、2日前までに新発田市観光協会に申し込めば、案内してくれるそうです。
新発田では「佐藤哲三を語る会」「大杉栄を語る会」「新発田郷土史研究会」「新発田城を愛する会」「大倉喜八郎の会」などが毎年講演会、映画上映、座談会をやっていますので、それに参加するのも毎年の楽しみです。
新潟大学名誉教授の富沢さんの堀部安兵衛や良寛についての講演会を聞くのもいつも楽しみです。
最近やらなくなったが、毎年、新発田市市民文化会館で活動弁士の沢登翠さんによる無声映画の上映を毎年やっていたのを見るのが楽しみでした。
新発田の吉原写真館店主の吉原悠博さんは、敬和学園大学非常勤講師ですが、学生に新発田市内に残る古い建物を調査させており、その報告会とまちづくりのシンポジウムにも参加させてもらっています。
「写真の町シバタ」のイベントも毎年参加しています。
「新発田城を愛する会」は、「道学堂」という新発田の歴史を学ぶ講座を月2回、数年やっていたこともあり、そこにも通いました。
白勢長屋は明治20年代に新発田の豪商白勢家によって建てられた長屋です。
白勢家は、市島家と並んで江戸時代から明治時代にかけて新潟平野で千町歩地主という大地主の一つでした。白勢家は新発田の材木町に住んで、質屋を始め、さらに多角的に商業を営み、やがて新田開発や農地の買い集めで、大地主になり、幕末まで新発田藩の大財閥であるばかりでなく、村上藩や長岡藩や会津藩にも、多額の金を貸す豪商となっていました。新発田の白勢宗家から、江戸時代半ばには金塚の白勢本家が分かれていき、明治維新の時に白勢本家から新潟白勢家が分かれていきました。
新発田の白勢宗家は、明治11年(1888年)の明治天皇の北陸巡幸の際には天皇が宿泊する行在所となりました。白勢家は市島家と共に新潟開港にも財政的に尽力し、新潟の財界にも貢献しました。
新潟白勢家の初代当主の白勢彦次郎は国立第四銀行(後の第四銀行)支配人となりました。しかし、白勢家は明治時代に海運業で失敗し、新発田の白勢宗家は明治半ばの火事で焼けて五十公野に移り、白勢家は最終的には戦後の農地改革で解体していきました。

次の写真は、白勢長屋のある通り沿いにある児童遊園に「明治天皇行在所跡」の石碑があります。台輪の格納庫もあります。
明治11年、明治天皇が北陸巡幸で新発田に来た際、白勢邸に宿泊しました。その白勢邸は、明治28年の大火で類焼してしまい、白勢宗家は五十公野へ移ります。白勢邸跡地の一角が、児童遊園となり、行在所跡の記念碑が建っているのです。新発田の白勢宗家の名残りは何も残っていません。





公園内には台輪を格納する倉庫があります。

堀部安兵衛手植えの松でお馴染みの長徳寺には、新潟の白勢家別邸の建物が移築されています。これは新潟での明治天皇の行在所となった建物です。僕は数年前に見学させてもらったことがあります。
新発田警察署の裏に苔香荘というお屋敷があります。苔香荘は、かつて新発田藩の上級武士が住んでいた屋敷の跡地です。その後、明治の中ごろ、呉服商村山家の屋敷となり今日まで、みごとな松の庭園とともに受け継がれてきました。そこに旧村山家の大茶室「苔松庵」、旧武者家の別荘「武者亭」、さらに金塚の白勢本家の庭園にあった「紫雲閣」を移築して生まれたのが苔香荘です。
苔香荘は、毎年、秋に2日間のみ公開されています。昨年はコロナ禍で中止になりました。次の写真は、金塚の白勢本家の庭園にあった紫雲閣です。写真は、一昨年僕が撮影したものです。
紫雲閣は、銀閣寺を模した木造2階建ての楼閣建築で、1階は書院造の和室、2階には観音像が安置されています。














白勢長屋(池田邸)を見学したいと思っていましたが、現在、この建物には住んでいないようだし、「しばたまち守りの会」のFacebookを見ていても、いつ活動するのか情報が載らないので、Facebookで直接やり取りして、ようやく見学する日が決まりました。
4月25日に訪ねました。約束した時間前に新発田の町の中を巡りました。今月4回目です。「TAICOや」も訪ねる予定でしたが、日曜日が定休日でした。





遠藤麻理さんが訪れた時は、バラした木材が山になっていましたが、すっかり綺麗になっています。2階の床、壁、天井もありません。


白勢長屋の建物は隣と繋がっていますが、池田祐一さんが住んでいた部分だけが、池田祐一さんの所有です。おそらく戦後の農地改革の時に白勢家から池田さんの祖父母の所有へと変わったと思います。
池田祐一さんが子供の頃、ここで祖父母が一斗缶に入った割れせんべいなどを売っていたそうです。
次の図は、昭和15年頃の四ノ町界隈の地図です。
次の写真は、昭和50年代の白勢長屋です。この頃は、12軒あったそうです。
その後、両親が平成初め頃まで八百屋をやっていたそうです。
次の写真。壁の塗装されていない場所は、八百屋だった頃、大きな冷蔵庫がありました。



床のない2階に上がらせてもらいました。






































今年、何かイベントをここでやる予定があるか尋ねると、今年はリフォームに専念したいということでした。夏の祭りが行われるなら、その時はイベントをやって欲しいですと言ったら、祭りがあるなら是非、何かやってみたいとのことでした。











これからも「しばたまち守りの会」のFacebookをチェックし、イベントなどあれば訪ねます。


令和4年6月25〜26日の2日間、「しばた寺びらき」の期間中、白勢長屋(池田邸)が一般公開されるという記事を見つけたので、26日午後に行きました。


1時30分頃到着すると、シャッターが閉まっていて、店番は昼休みの為、留守にしているが、2時頃に戻るという張り紙が貼ってありました。

仕方なく長徳寺で時間をつぶしてから2時過ぎに伺うと、客数人と見覚えのある顔の女性が店番をしていました。

「去年の4月にこの建物の中を見学させてもらったんですが、その時と比べると、入り口にシャッターを取り付けた以外にあまり進展していないようですが、どういう風に活用していくのかまだ決まっていないのですか?」

「○○さんですね。」

僕の名前を覚えていてくれて、すぐにその名前が出てきてくれたのは嬉しい。建物を見に来たのは僕ぐらいしかいなかったということだろう。

「この前、来られた時はもう2階はなかったですか?あまり変わっていないのは申し訳ないですが、シャッターを取り付けたのと、床のコンクリートを全部ハツリました。これから土を全部削って、コンクリートをまた打ちます。柱も耐震強度に問題があるので補強します。」

「どうするのか決まったのですか?」

「家主の池田さんは近くに住まいを持ち、暮らしておられます。ここは私達にどうするのか任されましたので、私達の事務所にしようと思っています。今はテレワークが出来るようになりましたから。奥は地域の人の休憩所にします。」

平面図も見せてもらいました。大工は決まっているそうです。資金面で問題があるのだろうか?動きが遅いと前から思っていました。

一般公開中に見に来た人は、地元の人が多いようです。みんな昔の白勢長屋をよく知っている人ばかりです。

「昔はこの通りも賑やかだったんだよ」

みんな白勢長屋にかつてあった店のことをよく知っている人ばかりで、そういう聞き取り調査をやってみたいと思ったが、店番とお客さんの話の聞き役に徹した。

休憩所と言えば、新発田駅近くに「たまり駅」という休憩所が3ヶ所あります。僕は毎月数回、中に入りますが、自分とスタッフ以外に人を見たことがありません。スタッフもいない無人の時が多いです。

白勢長屋の前は、普段は人通りがほとんどない訳だから、人が集まる対策をこうじないと、たまり駅の二の舞になるのは確実だと思います。

人が何度も来たくなる魅力がないとダメです。

僕はこれからも白勢長屋池田邸を常に見ていきます。

遠藤麻理さんの色紙が真ん中に置かれていました。