青松寺

 

 

曹洞宗  青松寺

 

 

山号 : 萬年山

宗派 : 曹洞宗

寺格 : 単立寺院 曹洞宗江戸三箇寺

本尊 : 釈迦牟尼仏

創建年 : 文明8年(1476年)

開山 : 雲崗舜徳禅師

開基 : 太田道灌公

正式名 : 萬年山 青松寺

 


所在地 : 東京都港区愛宕2-4-7

 

 

東京都港区愛宕にある曹洞宗系単立寺院。
万年山と号し、曹洞宗関府六か寺の一、曹洞宗江戸三か寺

(他は高輪の泉岳寺、橋場の総泉寺)の一に数えられた。
1476年(文明8)太田道灌が雲崗舜徳を開山として貝塚(現千代田区平河町)に創建し、
1600年(慶長5)に現在の地に移された。
末寺に青竜寺をはじめ19か寺、孫末寺は10か寺余りあり、本山の格式をもつ寺であった。
江戸時代には芸州の浅野家、長州の毛利家、土佐の山内家、

越前勝山の小笠原家、石州津和野の亀井家、越前敦賀の酒井家など、

多くの大名の菩提寺として栄えた。
寺の背後の丘は含海山とよばれて眺望のよいことで知られた場所であり、
境内には近世の武将亀井滋矩、儒者井上金峨、維新期の志士広沢真臣などの墓がある。

寺の中に僧堂「獅子窟」を擁し、幾多の人材を輩出。
明治八年(1875年)、獅子窟学寮内に曹洞宗専門学本校が開校します。
翌年、駒込吉祥寺の旃檀林と合併し、今日の駒澤大学へと連なっていきます。

 

『山門』

 

『増長天』

 

『広目天』

 

『多聞天』

 

『持国天』

 

『鐘楼』

 

『梵鐘』

 

『中雀門』

 

『本堂』

 

『本堂内陣』
御本尊様は釈迦牟尼如来、脇侍に文殊、普賢の両菩薩が祀られています。

 

『本堂扁額』

 

『本堂前阿形像』

 

『本堂前吽形像』

 

『獅子吼林サンガ(雲堂)』

 

『観音聖堂(禅道場)』

 

『水鉢』

 

『観音像』

 

『チャラリ~壁からドラゴン』

 

『籔内佐斗司さん作の誕生童子と花祭り童子』

 

『スカルノ碑』
インドネシア独立戦争に参加した市来龍夫、吉住留五郎に対して1956年にスカルノ大統領が送った記念碑

 

『法輪大観音』

 

『法輪』

 

『石仏』

 

『奴地蔵(槍持勘助墓)』

 

『稲荷社』

 

『茶室 智正庵』

 

 

 

<太田道灌>

 

室町中期の武将。
扇谷上杉氏の家宰。
父は資清。
道灌は入道名。
諱について、系図は初め持資、のち資長と改めたと伝えるが、いずれも確証はない。
有名な江戸築城は1456年(康正2)に開始、翌年4月に完成と伝えられる。
また、この年に父の指導で岩槻、河越両城の築城にも着手したといわれる。
1465年(寛正6)3月に上洛したといわれるが定かでない。
文明(1469~87)初年ごろには、道灌父子は実力者として扇谷上杉氏にかわって
相武の事実上の支配を行っていたが、その活躍がとくに顕著になるのは、
1473年(文明5)扇谷上杉政真が古河公方足利成氏との戦いで敗死した五十子合戦ののち、
扇谷上杉氏を定正が継いでからである。
1476年には定正の命を受けて駿河守護今川氏の内紛に介入、その在陣中に長尾景春の反乱が起こると、
内紛を収拾し江戸に帰り、これより80年にかけて定正、山内上杉顕定を助けて、

景春方と三十余度も戦いを交えた。
道灌は歌人としても名高く、漢詩文の素養もあったが、道灌作といわれる書籍には偽書が多い。
文化人としてのみならず、「足軽之軍法」を編み出した軍法師範とされるなど、優れた兵術家、築城家、
傑出した政治家でもあった。
しかしその終末は、主君定正の糟谷の館に招かれ、文明18年7月26日ここで謀殺された。
彼は「当方(扇谷上杉家)滅亡」といって絶命したという。
法名春苑道灌。
墓は上糟谷の洞昌院に、また下糟谷の大慈