寺社仏閣と城郭とともに ~ 開運・パワースポット 総本山・大本山 ~
  • 25Apr
  • 20Apr
    • 銅像一覧

      銅像一覧弘法大師(空海)伝教大師(最澄)円光大師(法然)一遍上人親鸞上人日蓮上人

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  • 19Apr
    • 善光寺 ②

      善光寺無宗派 善光寺山号 : 定額山宗派 : 無宗派本尊 : 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏)創建年 : 伝皇極天皇3年(644年)開山 : 本田善光、妻の弥生の前、息子の善助 (ご三卿)開基 : 伝)皇極天皇(勅願)別称 : 信州善光寺、信濃善光寺所在地 : 長野県長野市元善町491<六善光寺巡り>長野信州善光寺遠くとも一度は詣れ善光寺長野善光寺は一生に一度お参りをすれば極楽浄土に行けると伝えられています。所在地 : 長野県長野市元善町491元善光寺 (定額山元善光寺)善光寺だけでは片参り所在地 : 長野県飯田市座光寺2638山梨甲州善光寺 (定額山浄智院善光寺)日本一の鳴き龍善光寺所在地 : 山梨県甲府市善光寺3-36-1善光寺東海別院極楽をこの世で拝める善光寺所在地 : 愛知県稲沢市祖父江町祖父江南川原57-2関善光寺 宗休寺手を合掌わす心をつなぐ善光寺所在地 : 岐阜県関市西日吉町35岐阜善光寺 (愛護山善光寺安乘院)信長が本佛迎えた善光寺所在地 : 岐阜県岐阜市伊奈波通1-8<主な別院>豊前善光寺 (梵天山法性院善光寺)所在地 : 大分県宇佐市大字下時枝237川口善光寺 (平等山阿弥陀院善光寺)所在地 : 埼玉県川口市舟戸町1-29信州善光寺別院南命山無量寿院善光寺所在地 : 東京都港区北青山3-5-37<塔頭寺院>天台宗大本山大勧進の25院福生院長野市元善町481吉祥院長野市元善町480教授院長野市元善町479常智院長野市元善町478尊勝院長野市元善町477蓮華院長野市元善町476世尊院長野市元善町475常住院長野市元善町474威徳院長野市元善町473円乗院長野市元善町472玉照院長野市元善町471常行院長野市元善町447甚妙院長野市元善町445玄証院長野市元善町444善行院長野市元善町443寿量院長野市元善町442良性院長野市元善町498宝林院長野市元善町497長養院長野市元善町496本覚院長野市元善町495徳寿院長野市元善町494最勝院長野市元善町493常徳院長野市元善町615光明院長野市元善町614薬王院長野市元善町657浄土宗大本山大本願の14坊堂照坊長野市元善町467堂明坊長野市元善町466白蓮坊長野市元善町465正智坊長野市元善町464兄部坊長野市元善町463淵之坊長野市元善町462常円坊長野市元善町461随行坊長野市元善町441浄願坊長野市元善町457徳行坊長野市元善町448野村坊長野市元善町450正信坊長野市元善町456鏡善坊長野市元善町451向仏坊長野市元善町452善光寺 ①へ

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  • 18Apr
    • 善光寺 ①

      善光寺無宗派 善光寺山号 : 定額山宗派 : 無宗派本尊 : 一光三尊阿弥陀如来(絶対秘仏)創建年 : 伝皇極天皇3年(644年)開山 : 本田善光、妻の弥生の前、息子の善助 (ご三卿)開基 : 伝)皇極天皇(勅願)別称 : 信州善光寺、信濃善光寺所在地 : 長野県長野市元善町491単立宗教法人で、現在は、天台宗大本山の大勧進(僧寺)、浄土宗大本山大本願(尼寺)と一山寺院39か寺によって管理運営され、大勧進住職と大本願住職がともに善光寺住職を兼務する。山号は定額山。「信濃の善光寺」の名で親しまれ、全国から宗派の別を超えて参詣者が集まる阿弥陀信仰の霊場。642年(皇極天皇1)の創建と伝えるが、草創に関してはいまだ定説をみない。文献上に善光寺が現れるのは平安時代後期からで、そのころは三井寺の末寺であったことが知られる。また近世になると寛永寺の末寺となっていた。本尊は、一つの舟型後光の中に、中尊阿弥陀如来と、六角形の宝冠を頂く両脇侍像(観音菩薩、勢至菩薩)が安置された典型的な一光三尊仏で、善光寺如来ともいわれるが、秘仏となっておりその姿を拝することはできない。このため本尊の分身仏とされる鎌倉時代の模刻像、前立本尊が、数え年で7年に一度開帳される。後世、広く流布した『善光寺縁起』によれば、インドの月蓋長者が娘の病気治癒を阿弥陀如来に祈願してかなえられた御礼に、竜宮城から得た閻浮檀金の金砂でつくったものという。552年(欽明天皇13)百済の聖明王より朝廷に献上され、初め宮中に安置されていたが、悪疫流行の禍根とみなされ、また物部・蘇我氏の争いで難波の堀江に投ぜられたのを、推古天皇の代に信濃国の若麻績東人(後の本田善光)が拾い上げ、持ち帰って草堂に安置したという。642年勅命によって水内郡芋井里に伽藍を建立してこの像を祀ったのが善光寺の起源と伝えられている。鎌倉時代には源頼朝が再興に力を尽くし、堂舎も整えられて隆盛となり、さらに善光寺式一光三尊仏の模刻が流行したことにより善光寺信仰も広まっていった。しかし戦国時代には本尊仏の移動は激しく、1558年(永禄1)武田信玄によって甲府の善光寺へ、1582年(天正10)織田信長によって岐阜へ、ついで愛知の甚目寺へ、徳川家康によって静岡へ、そして甲府へ、豊臣秀吉によって京都方広寺へと移され、ようやく1598年(慶長3)に至って信濃の善光寺へ戻された。1601年には徳川家康から寺領1000石が寄進されている。頼朝が再建して以来十数回火災にあったといわれるが、現在の本堂は松代藩主真田家が幕府の命を受けて1707年(宝永4)に完成したもの。山門(三門)、経蔵は国の重要文化財に指定されている。境内は広く、大勧進と大本願の二大本山のほか、天台宗一山寺院25院、浄土宗一山寺院14坊が建ち並び、仁王門から山門に所属する山内の寺院37か寺が建ち並び、二王門から三門に至る約100メートルの仲見世通りには土産物店や仏具店が並ぶ。善光寺詣での特色に、瑠璃段下の暗闇の廊下を手探りで一巡する「お戒壇めぐり」、大勧進・大本願両住職が本堂へ昇下堂する際に数珠で参詣者の頭をなでる「お数珠頂戴」などがある。『参道石畳』お数珠頂戴仁王門の前に7777枚の石畳が敷き詰められています『仁王門』『阿形像』『吽形像』『駒返り橋』源頼朝が善光寺に参詣した折、馬の蹄が石橋の穴に挟まってしまい、ここから奥は馬を返して徒歩で入ったと言われています。『六地蔵』『山門』『山門扁額』『濡れ仏』『手水舎』『大香炉』『陶製燈籠』『本堂』『本堂半鐘』『石灯篭』『親鸞聖人像』『経蔵』『鐘楼』『梵鐘』『善光寺寺務局』『真田家関係古塔』『藤原采女亮政之の碑』『御供所』『千人塚』『徳川家大奥供養塔』『大本願廟所』『松代藩主真田家の供養塔』『迷子郵便供養塚』『花霊碑』『雲上殿多宝塔』『日本忠霊殿』戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦争で亡くなった約240万柱の英霊が祀られている仏式霊廟です。『むじな灯籠』『聖徳太子碑』聖徳太子は、日本仏教の祖として信仰を集めてきましたが、大工・左官等の職人の守護神としても篤く祀られてきました。この碑は、長野県北部の建築関係者によって造立された『回向柱』『爪彫如来像』『仏足石』『延命地蔵尊』『石造宝篋印塔』『境内図』『むじな地蔵』『牛にひかれて善光寺参り』『旧如来堂跡地蔵尊』『善光寺世尊院釈迦堂』善光寺 ②へ

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  • 16Apr
    • 日泰寺

      日泰寺超宗派 日泰寺山号 : 覚王山宗派 : 超宗派本尊 : 釈迦金銅仏創建年 : 明治37年(1904年)所在地 : 愛知県名古屋市千種区法王町1-1日本で唯一のいずれの宗派にも属さない日本の全仏教徒のための寺院で、釈尊(お釈迦さま)のご真骨をタイ国(当時シャム国)より拝受し、仏教各宗代表が協議し奉安する為に1904年(明治37年)に建立された。釈尊を表す「覺王」を山号とし、日本とシャム(暹羅)国の友好を象徴して覺王山 日暹寺として創建された。その後、昭和14年(1939年)シャム国のタイ王国への改名に合わせて、昭和17年(1942年)日泰寺に改名された。よって、運営に当っては現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職をつとめ、各宗の代表が役員として日常の寺務に携わっている。年中行事としては3月15日の涅槃会。4月8日の降誕会(花まつり)、5月のウエサカ祭、6月15日の奉安記念法要、11月15日の奉遷記念法要、12月8日の成道会、春秋彼岸会法要、等々。特に毎月21日弘法大師の縁日は境内一円に露店が出店され終日にぎわい、名古屋市民の信仰と憩いの場所となっている。日泰寺略記「釈尊」の実在が立証される。19世紀東洋史上の一大発見チュラロンコン国王像1898年(明治31年)1月、ネパールの南境に近い英領インドのピプラーワーというところで、イギリスの駐在官ウイリアム・ペッペが古墳の発掘作業中ひとつの人骨を納めた蝋石の壺を発見した。その壺には西暦紀元前3世紀頃の古代文字が側面に刻みこまれており、それを解読したところ「この世尊なる佛陀の舎利瓶は釈迦族が兄弟姉妹妻子とともに信の心をもって安置したてまつるものである」と記されてあった。これは原始佛典に、「釈尊」が死去した後、遺体を火葬に付し、遺骨を八つに分けてお祀りし、その中釈迦族の人々もその一部を得てカピラヴァツに安置したとある記載が事実であったことを証明するものである。当時19世紀の西欧の学者の間では、佛教の教祖である「釈尊」なる人物はこの地上に実在したものではあるまいという見方が一般的であって、一部の学者にいたっては釈尊信仰を太陽神話の一形式であるとの見方をしていたほどである。そうした状況がこの発掘によって一変し、「釈尊」の実在が立証され、まことに19世紀東洋史上の一大発見となった。その後インド政庁はこの舎利瓶と若干の副葬品の呈出をうけ、舎利瓶その他はカルカッタの博物館に納めたのであるが、釈尊の御遺骨についてはこれを佛教国であるタイ国(当時シャム)の王室に寄贈したのである。時のタイ国々王チュラロンコン陛下は大いに喜ばれ佛骨を現在もあるワットサケットに安置しお祀りしたのであるが、その一部を同じく佛教国であるセイロン、ビルマに分与せられた。この時日本のタイ国弁理公使稲垣満次郎はバンコクに於いてこれを見聞し、羨望にたえず、日本の佛教徒に対してもその一部を頒与せられんことをタイ国々王に懇願し、その結果「タイ国々王より日本国民への贈物」として下賜するとの勅諚が得られたのである。『寺号標石』『山門』『山門扁額』『迦葉尊者』『阿難尊者』『鐘楼』『五重の塔』『水屋』『お地蔵様』『普門閣』『タイ国王皇太子殿下お手植えの松』『ラーマ5世像』『象像』『常夜灯』『本堂』『本尊釈迦如来像』『本堂扁額』『香炉』『庫裡』『玄関』『鎮守社』『石仏』『石門』『萬霊供養塔』『水屋』『舎利殿』『釈尊遺形霊地の碑』『通天門』『奉安塔礼拝殿』『釈尊御真骨奉安塔』立て看より抜粋『入滅像』『同行二人像』『僧塔』『霊堂』『由緒書』『境内案内図』

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  • 15Apr
    • 松尾観音寺

      松尾観音寺山号 : 龍池山宗派 : なし寺格 : 単立寺院本尊 : 十一面観音創建年 : (伝)和銅4年(712年)開山 : (伝)行基正式名 : 龍池山松尾観音寺別称 : 松尾観音所在地 : 三重県伊勢市楠部町156-6日本最古の厄除観音今から1300年前の奈良時代初め(712年) 当時の高僧「行基」が伊勢参宮の折に夫婦の龍神様が住むと言い伝えられている池(二つ池)を尋ねられ、自ら「十一面観音菩薩」、「毘沙門天」、「地蔵菩薩」の三尊様を 刻み、 池のほとりに建立し安置したのが始まりと言われています。その後は、伊勢国の国司であった北畠氏が祈願寺として守護し、その後、北畠家一統の木造氏が氏寺として守護してきました。また松尾観音は本山、末寺 、檀家も持たず「単立寺院」であり、仏教本来の教義・本質を守り、葬儀や供養など一切行わない「祈願時」という形態をとっています。本堂裏にある二ツ池(龍池)と呼ばれるふたつの池には、昔から東の池には雄龍、西の池には雌龍が角住み、観音様を守っていると言われています。『松尾橋』『参拝の作法』『参道』『手水鉢』『香炉』『本堂』文政3年、総欅造りで建てられ(木造長郷氏による寄進)、本堂正面一面に彫られた 欅一刀彫り龍神欄間や、江戸時代流行となったお礼奉納の絵馬や額、約100点が収められています。再建された今の本堂の天井には、龍神様の通り道として、天井板が一枚だけはずしてある。その板は、いくら閉めても、いつの間にか開いてしまうのだそうな。『十一面観音様』三十六態ものお姿に変身して人々の危機を救ってくださるという、ありがたい観音様。『本堂龍神様』ある日突然本堂の床板に龍神様が浮かび上がってきたとか1403年本堂が火災にあった際に池からその2体の龍神様が現れ、雄龍は燃え盛る炎を飲み込みながら空から舞い降り観音様を自らの体で幾重にも巻きつけ、また雌龍ほ何度も池の水を炎に吹きかけ観音様を火災から守ったという伝説が残っています。この龍神様を撫でると幸運がやって来る「撫で龍」 とも呼ばれ、知る人ぞ知るパワースポットになっています。『本堂扁額』『龍池社への参道』『松尾龍池社』『聖観音堂(護摩堂)』『石碑』『石碑』『庚申堂』『お地蔵様』『お地蔵様』『石塔』『大主耕雨の句碑』『筆塚』『社務所』『納札所』『龍神庭園』花の見ごろにはツツジが咲き龍神様の形に見えるそうな。『龍神庭園ののぼり龍の説明書』『由緒書』『龍神様が住む二つ池(西池)』『龍神様が住む二つ池(東池)』

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  • 14Apr
    • 平等院

      平等院単立寺院 平等院山号 : 朝日山宗派 : 単立本尊 : 阿弥陀如来創建年 : 永承7年(1052年)開山 : 明尊大僧正開基 : 藤原頼通所在地 : 京都府宇治市宇治蓮華116京都府宇治市宇治蓮華にある単立寺院。山号は朝日山。宇治は『源氏物語』の「宇治十帖」の地であり、古来、山紫水明で、左大臣源融が別業(別荘)宇治院を営んだことは名高い。それはのち、六条左大臣源重信を経て藤原道長の手に移り、たびたび遊宴が催された。宇治院(宇治殿とも)は道長より子頼通へ譲られるが、末法の初年とされた1052年(永承7)頼通は寝殿を仏殿(本堂)とし、翌年、宇治川の西岸に阿弥陀堂が建立された。東から西の極楽浄土を望む位置に建てられ、阿字池には翼廊付きの御堂を配置し、堂内には定朝作の阿弥陀坐像を安置するなど、極楽浄土を観想する当時の浄土思想に基づいてつくられた。初代の執印(開山)は園城寺の明尊大僧正。以後、1056年(天喜4)に法華堂、1061年(康平4)に多宝塔、1066年(治暦2)に五大堂が造立された。頼通の没後、娘の四条宮藤原寛子が住した。宇治は古代から交通の要衝で、646年(大化2)道登が架橋した。1180年(治承4)源三位頼政が園城寺に兵をあげ、奈良へ赴く途中宇治で平氏と戦い、平等院で自害した。梶原景季と佐々木高綱の先陣争い(1184)も有名であり、承久の乱(1221)では上皇方と北条方の対峙の所となった。建武年間(1334~38)楠木正成が足利尊氏と戦ったとき付近一帯を焼き、平等院も鳳凰堂、観音堂、鐘楼を残し焼失した。なお、鎌倉時代、西大寺叡尊は平等院の僧の勧めで、宇治橋修造、網代撤廃(殺生禁断)を行い、浮島に十三重石塔を建てた。室町時代に近江の三井寺円満院門主が兼務したが、明応年間(1492~1501)浄土宗の栄久上人が管理し、浄土・真言・天台宗が対立し、浄土宗の浄土院と天台宗寺門派の最勝院の管理となり、現在、西院の住職が3年交替で代表役員を務めている。『表参道』『寺号標石』『旧南門』『ミュージアム鳳翔館』『鳳凰堂(阿弥陀堂)』『鳳凰堂(阿弥陀堂)』『鳳凰堂阿弥陀如来坐像』『鳳凰堂の屋根にある鳳凰』『鳳凰堂阿弥陀如来坐像』『源頼政の墓地』『表門』『観音堂』『扇の芝』『藤棚』『阿字池』『州浜』『池殿地蔵堂』『六角堂』『鐘楼』『梵鐘』『集印所』『茶房藤花』『境内図』『夢浮橋ひろば』<塔頭寺院>『浄土院』『浄土院救世船乗観音』『浄土院養林庵書院』『浄土院羅漢堂』『浄土院宇治茶の祖・竹庵の碑詩』『最勝院』『最勝院不動堂内陣』

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  • 13Apr
    • 不動寺

      不動寺黄檗宗 不動寺山号 : 瀑布山宗派 : 黄檗宗寺格 : 萬福寺末寺本尊 : 不動明王創建年 : 寛文4年(1664年)開山 : 亘虚道常開基 : 近藤登之助別称 : 平口不動寺、平口のお不動さん、身代わり不動所在地 : 静岡県浜松市浜北区平口5052瀑布山不動寺は平口のお不動さんとして古くから親しまれている遠州の名刹です。その起源は奈良時代。行基菩薩がこの地を行脚した際、不動明王を彫って疫病を沈めたことに発します。本尊の不動明王は無病息災、開運厄除け、家内安全などさまざまなご利益があり、霊験あらたかとして、今も人々に親しまれています。江戸時代初期1654年、中国福建省から渡来した隠元禅師が、後水尾法皇や徳川4代将軍家綱公の尊崇を得て、1661年に開創されました。1664年、徳川5代将軍綱吉の頃、金指の領主であった旗本近藤登之助に隠元禅師の弟子の独湛禅師がこの地に招かれました。独湛自身は近藤家が創建した宝林寺の住持となり、その弟子の亘虚道常が不動寺に入り中興開山となりました。『竜宮門』『参道』『稲荷堂』『本堂』『本堂』『本堂内陣』『本堂扁額』陸軍大将乃木希典書『本堂扁額』陸軍大将山縣有朋書『本堂』『豊橋衛戍行軍之眞景絵額』『弘法大師像』『なで仏(賓頭盧尊者像)』『布袋様』『鐘楼』『忠魂碑』『女滝』『由緒書』『境内図』これで黄檗宗は終了!

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    • 普明寺

      普明寺黄檗宗 普明寺山号 : 円福山宗派 : 黄檗宗本尊 : 釈迦三尊像創建年 : 延宝5年(1677年)開山 : 桂厳性幢開基 : 鍋島直孝所在地 : 佐賀県鹿島市古枝久保山23461677年に鹿島3代藩主鍋島直朝の長男である直孝によって創建されました。本堂より奥の原生林の間を進むと、鹿島藩歴代藩主の墓地があります。普明寺は黄檗宗の寺院であり、楼門から左右にのびる回廊は黄檗宗に特徴的な建築様式です。本山である京都府宇治市の「萬福寺」を模倣しており、萬福寺と同様に境内全体を竜に見立てて配置しています。竜の頭にあたる入り口には「竜眼の池」という池が二つ並び、これらは竜の眼を表しています。石門をくぐって楼門へとつながる参道は竜の首にあたり、楼門と本堂部分が腹部になります。春には桜、夏にはあじさい、秋にはキンモクセイの花を咲かせ、自然が豊かな寺院になっています。「島田洋七の佐賀のがばいばあちゃん」という映画のロケ地にもなっています。鹿島藩鍋島家の菩提寺。一七棟もの伽藍を造る、寺は万福寺と同様に、寺域全体を竜に見立て、建物や施設を配置した。竜の頭である入りロには石橋をはさんで目に当たる「竜眼の池」を置き、石門(総門)をくぐると竜の首に当たる参道を通って竜の腹である楼門と回廊、本堂に至る。さらに本堂の裏には竜のしっぽに見立てた墓道を経て、鹿島鍋島藩の歴代藩主の墓所に至る普明寺は黄檗宗の様式や伝統を忠実に伝えると共に、本堂の土間や楼門に特徴が見られるように中国明朝の寺院建築の様式で建てられた、佐賀県内でも非常に珍しい寺院である。『総門前橋』『竜眼の池』『総門(石門)』池を竜の眼、石門を龍の口と見立てています。『地蔵菩薩像』『石仏』『石碑』『法泉寺』『参道』龍の首をイメージした参道『楼門』『観音堂』『回廊』『本堂』竜の腹である楼門および本堂『本堂扁額』『石像羅漢像』『キンモクセイ』『開梆』『巡照板』『鍋島直紹 則子墓』『龍の尻尾を模した小路』『鍋島家墓所』『三代 直朝公の墓』『大クスの木』『開山塔』『由緒書』『境内図』

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  • 12Apr
    • 福厳寺

      福厳寺黄檗宗  福厳寺山号 : 梅岳山宗派 : 黄檗宗寺格 : 開堂地本尊 : 釈迦如来創建年 : 天正15年(1587年)開山 : 緒庵禅師開基 : 戸次鑑連中興年 : 延宝2年(1674年)中興 : 立花忠茂(中興開基)、鉄文道智(中興開山)正式名 : 梅岳山福厳寺所在地 : 福岡県柳川市奥州町32-1福厳寺は柳河藩々主立花家の菩提寺です。その前身は筑前立花山の麓にあった曹洞宗立花山梅岳寺で、天正15(1587)年、立花宗茂が筑後の山門・下妻・三潴の三郡を与えられ柳川に城を構えた際、立花家の香華所として柳川に移されました。もとは曹洞宗の寺院でしたが、立花家4代鑑虎の時、臨済宗黄檗派に転じ寺名を梅岳山福厳寺と改めました。『山門』『山門扁額』『寺号標柱』『六地蔵塔』『鎮守社』『鐘楼』『天王堂』『韋駄天様』『祖霊廟』『鐘鼓楼』『開山堂』『開山堂』『開山堂扁額』『本堂』『本堂扁額』『庫裡玄関』『本堂横』『木下三丘子の句碑』『石碑』『石碑』『御霊屋門』『柳川藩主立花家の廟所』歴代の藩主等の墓塔12基は4基ずつ3棟の建物に安置されています。正面には向唐破風造の表門が建ち、その両側に塀を連ね、それらの奥に建つ北棟・東棟・西棟の3棟で中庭を形成します。『立花宗茂墓』『立花鑑備墓』『由緒書』

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    • 福聚寺

      福聚寺黄檗宗 福聚寺山号 : 広寿山宗派 : 黄檗宗本尊 : 釈迦如来創建年 : 寛文5年(1665年)開山 : 即非如一禅師開基 : 小笠原忠真正式名 : 広寿山福聚寺所在地 : 福岡県北九州市小倉北区寿山町6-7福岡県北九州市小倉北区にある黄檗宗の寺院。山号は広寿山、本尊は釈迦如来。1665年、小倉藩初代藩主の小笠原忠真が、同家の菩提寺として創建。開山は福建省福州府福清県の出身の中国僧の即非如一(そくひにょいつ)禅師です。藩政時代には藩主の尊崇を得て、七堂伽藍や塔頭25坊を有して繁栄しますが、幕末の1866(慶応2)年、長州との戦い(幕長戦争)で長州藩の兵火で伽藍を焼失。本堂、総門、不二門、鐘楼などは焼け残り、往時の雰囲気を残しています。現存する本堂は、1802(享和2)年の再建。境内には、初代小笠原忠真夫妻、2代・忠雄、8代・忠嘉、9代・忠幹の廟所があります。『寺号標柱』『山門(総門)(第一関門)』『山門(総門)(第一関門)扁額』『不二門(第二の門)』『不二門(第二の門)扁額』『庭園』『西山宗因の句碑』『開山堂門』『開山堂』『小倉炭坑慰霊塔』『仏殿(本堂)』『仏殿(本堂)扁額』『仏殿(本堂)開梆』『地蔵堂』『鐘堂』『寶所の外塀』『収蔵庫』『祠堂門』『祠堂』『鐘鼓堂』『寺務所』『裏門』『手水舎』『石佛』『竜華観音堂』『浅間神社』『由緒書』『境内図』

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  • 11Apr
    • 法雲寺

      法雲寺黄檗宗 法雲寺山号 : 大宝山宗派 : 黄檗宗本尊 : 釈迦如来創建年 : 寛文12年(1672年)開山 : 慧極道明禅師正式名 : 大宝山 法雲禅寺所在地 : 大阪府堺市美原区今井192慧極道明禅師によって寛文12年(1672年)に開山された黄檗宗の中本山格の寺であります。山門・天王殿・大殿(本堂)・開山堂・耀先殿など、黄檗様式の建物群としてのまとまりと、全てではないものの建築当初の伽藍構成を今に残しており、寺伝によれば、法雲禅寺の前身は弘法大師の開基で神福山長安寺と称する真言宗の巨刹でありましたが、元和年間(1615年~1624年)に西除川の氾濫によって流失しました。その後変転をかさね、寛文11年、曹洞宗の僧宗月が霊夢によって地中より観音像を掘り出して草庵に安置し、翌年、宗月は慧極禅師に来住を乞い、寺を委ねたということです。『山門』『天王殿』『天王殿』『弁財天堂』『手水舎』『六角堂』『寺務所』『南門』『鐘楼堂』『慧極殿』『厄除大観音像』『大雄宝殿(本堂)』『大雄宝殿(本堂)』『大雄宝殿(本堂)扁額』『巡照板』『大殿(本堂)と方丈を結ぶ渡り廊下』『耀先殿』『開梆』『開山堂』『開山堂扁額』『方丈』『狭山北条家墓所』『由緒書』『境内図』

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    • 永慶寺

      永慶寺黄檗宗 永慶寺山号 : 龍華山宗派 : 黄檗宗本尊 : 釈迦尼佛座像創建年 : 宝永元年(1704年)開山 : 悦峯道章禅師開基 : 柳澤吉保公所在地 : 奈良県大和郡山市永慶寺町5-76甲府藩主となった柳澤吉保は宝永7年(1710)に甲斐国巨摩郡岩窪村躑躅ケ崎(現在:甲府市岩窪町)に龍崋山永慶寺を建立し、正徳3年(1713)9月5日に逝去した正室の定子と正徳4年(1714)11月2日に逝去した吉保が同時に埋葬され菩提寺となるなど、柳沢家が甲斐国を治めた時代、永慶寺は順当な推移していったが、2代甲府藩主であった柳澤吉里の時代である享保9年(1724)3月、幕命により大和国郡山に転封となったことから、永慶寺も大和郡山に移転し現在に至っている。『山門』『鐘楼』『地蔵堂』『弁天堂』『弁天門』『庫裏』『香厳院(柳沢家仏間)』『方丈(客間)』『玲瓏殿(納骨堂)』『本堂』『永慶寺会館』『高浜虚子の句碑』秋雨や俥なければ歩くまで 虚子『森田峠句碑』金魚田のありとも見えず町繁華 峠『阿波野青畝句碑』山涼しみやこ忘れと聞くからに 青畝『柳沢家墓所門』『六代藩主柳沢保申の墓所』『六代柳沢保申正室遺髪碑』『七代柳沢保惠墓石』『五代藩主 柳沢保興正室墓石』『石碑』『石碑』『殉国塔』『由緒書』

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  • 10Apr
    • 紹太寺

      紹太寺黄檗宗 紹太寺山号 : 長興山宗派 : 黄檗宗本尊 : 釈迦如来創建年 : 寛文九年(1669)開山 : 鉄牛道機開基 : 稲葉正則所在地 : 神奈川県小田原市入生田303寛文9年(1669年)に2代目藩主、稲葉正則が城下の山角町の菩提寺をこの地に移転し、宇治万福寺から鉄牛和尚を招いて開山した。  江戸初期の小田原藩主、稲葉一族の墓と春日局(天正7年(1579年)~寛永20年(1643年))の墓がある。春日局の遺体が葬られているのは東京都文京区にある麟祥院で、四方に穴が貫通した特異な形をし無縫塔の墓が建っている。他には京都黒谷の金戒光明寺にも墓が建っていた。幕末の火災によって建物が焼失し、現在では子院の清雲院が紹太寺の寺号を継いでいる。最盛時は七堂伽藍の整った大寺院で、山内の360段の石段を登ったあたりに伽藍跡が残る。『寺号標柱(総門跡)』『山門』『地蔵菩薩像』『本堂(旧子院清雲院)』『本堂扁額』『大黒天』『巡照板』『本堂前の庭園』『庫裡』普茶会席料理が味わえます。江戸時代初期に中国から日本へもたらされた精進料理。葛と植物油を多く使った濃厚な味、卓を囲み大皿に乗った料理を各人が取り分けるのが特徴。一卓四人宛着席し和気藹々のうちに料理を残さず食するのが普茶の作法であります。『永代供養墓「大地と宇宙」』『三界万霊塔』『清雲の碑』『開発供養塔』『遊撃隊士の墓』『地蔵菩薩像』『石碑』『石碑』『石碑』『360段の石段』この先も石畳と石段が続きます。『透天橋』『旧伽藍石柱』『旧本堂跡』『御霊屋敷跡』『春日局の墓』『稲葉家一族の墓』『開祖「鉄牛禅師」の寿塔』『刻銘石(瓔珞櫻)』『刻銘石(昆弟槙)』『刻銘石(百花叢)』『刻銘石(石牛路)』『一吸亭跡』『しだれ桜』樹齢約340年、高さ約13m、株元周囲約4.7mの大木『裏大門の道』これ以上進めませんでした。『由緒書』『山神神社』

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    • 禅林寺

      禅林寺黄檗宗 禅林寺山号 : 霊泉山宗派 : 黄檗宗本尊 : 阿弥陀如来立像創建年 : 元禄13年(1700年)開山 : 梅嶺道雪禅師開基 : 駒田孫右衛門所在地 : 東京都三鷹市下連雀4-18-20元禄12年(1699)八月台風のために建物が倒壊したので、松之坊は寺社再建不可能のために寺社地を村方へ返還した。そこで村方一同は協議の末、江戸本所石原に在った黄檗宗賢洲元養禅師に寺社建立のことを懇請した。かくして村方一同より官へ願い出で、元禄十三年十二月、黄檗宗霊泉山禅林寺と改称、江戸神田紺屋町駒田孫右衛門が開基となって堂宇伽藍の経営も着々と進み、当時天下の大小名より尊信を集めていた黄檗大眉門下の梅嶺道雪禅師を請して開山とし、賢洲禅師自ら第一代となり宗風の宣場につとめ、黄檗宗大本山万福寺の直末寺となり、現在に至る。八幡社とは明治初年の「神仏分離」令によって分離し、塔頭で あった松仙院(八幡社を管理)と円通庵は廃仏毀釈のころ本寺に合併した。『山門』『第二斎場』『森鴎外遺言碑』『第一斎場(梅賢堂)』『弁天堂』『聖観音像』『鎮守祠』『本堂』『宣豊禅師銅像』『三鷹事件遭難者慰霊塔』『明暦大火慰霊塔』『蓮池塔』『方丈』『太宰治墓』『森鴎外墓』『梵鐘』『八幡大神社』

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  • 09Apr
    • 弘福寺

      弘福寺黄檗宗 弘福寺山号 : 牛頭山宗派 : 黄檗宗本尊 : 釈迦如来創建年 : 延宝6年(1673年)開山 : 鉄牛道機禅師開基 : 稲葉正則正式名 : 牛頭山弘福禅寺所在地 : 東京都墨田区向島5-3-2かつて隅田村香盛島(高森島)にあった小庵を、延宝6年(1673)黄檗宗の寺として、江戸氏一族の牛島殿の城址に寺地を受け、ここに移し現在に至っていると伝えています。開山は鉄牛道機禅師で、開基は小田原城主稲葉正則です。鉄牛は石見の出身で、京都宇治万福寺の創建にも尽力し、大変行動力のあった禅僧と伝えられています。現在の本尊釈迦如来像は、後世の松雲禅師の作といわれています。伽藍は関東大震災で焼失し、昭和8年に再建されました。黄檗宗特有の唐風の特徴を持ち、本堂両翼にある円窓、堂前の月台、柱にかかる扁額など、他の寺院にはあまり見られないものです。また、森鴎外は少年時代、この地域で過ごしてもいますが、津和野藩主の菩提寺の関係から、没後ここに葬られています。しかし、震災後の隅田公園造成のため、三鷹禅林寺へ改葬されました。黄檗宗の関係から鳥取藩池田家、津和野藩亀井家ゆかりの寺院として、多くの関係者の菩提寺となっています。なお隅田川七福神のうち、禅宗にちなみ「布袋尊」が安置されています。(すみだの史跡文化財めぐりより引用)幕末の元勲勝海舟(1823~1899)が江戸島田道場において剣道に励んでいた若いころ、師の勧めで弘福寺に通い、数年間大勢の雲水と共に参禅していた。後年、その剣禅一致の修業は幕末の世情波荒き時にあっても『春風面を払って去るの心地』を開く機縁になったと翁が自ら語られた記録『氷川清話』の中で述懐されている。『山門』『山門扁額』『寺号標石』『七福神コース案内板』『布袋尊石』『翁媼尊』黄檗宗は禅宗の中でも中国色の強い宗派として知られ、当寺に布袋尊の御像が安置されたのも、実はその黄檗宗の性格にかかわる。布袋尊は唐時代の実在の禅僧で、常に大きな布の袋を持ち歩き、困窮の人に会えば袋から財物を取り出しては施し、しかも袋の中身は尽きるころがなかった。その無欲恬淡として心の広い人柄は、真の幸福とは欲望を満たすことだけではないことを、身をもって諭した有徳として、世人の尊崇を受け、隅田川七福神としても敬われた。『翁媼尊』風外禅師が、相州真鶴の山中の洞穴に於いて求道して居た所、禅師が父母に孝養を尽くせぬをいたみ、同地の岩石を以って自らが刻んだ父母の像です、禅師は之を洞穴に安置し恰も父母在すが如く日夜孝養怠らなかったといわれている。小田原城主当山開基稲葉正則公が、その石像の温容と禅師の至情に感じ、その放置されると憐れみ城内に供養していましたが、たまたま同公移封の為小田原を去るにあたり、当寺に預けて祀らしめたものです。尚、古くよりこの石像は咳の爺婆尊と称せられ、口中に病のあるものは爺に、咳を病むものは婆に祈願し、全快を得た折には煎り豆と番茶を添えてその礼に供養するという風習が伝わっている。『本堂鬼瓦』『大雄宝殿(本堂)』『大雄宝殿(本堂)扁額』『大雄宝殿(本堂)扁額』『大雄宝殿(本堂)扁額』『布袋尊像』『納経所』『客殿』『大雄宝殿と客殿への渡廊』『茶室』『観音像』『庭園』『鐘楼』『梵鐘』『建部綾足字孟喬寒葉斎墓所』『池田冠山墓碑』江戸時代後期の大名で因幡若桜藩主です。儒学者としても地理物理学者としても著名です。明和4年(1767)に生まれ、幼名を鉄之丞、恒太郎、のちに定常と名乗りました。天明5年(1785)に家督を継いで藩主となり、従五位下縫殿頭に叙任しました。学問は佐藤一斉について学び、古今和漢の書、地理仏典にいたるまで多くの書に目を通し、また諸芸にも通じていました。訪問する物の貴賎に関係なく接し、幅広い交流をもちました。享和元年(1801)健康を害して藩主の座を退いたのちはもっぱら著述を楽しみとし、晩年、冠山道人と号しました。佐伯候毛利高標、仁正寺候市橋長昭とならんで文学三候と称されましたが、天保四年(1833)七月九日、67歳で没し、当寺に葬られました。著書には「浅草寺志」「江戸黄檗善刹記」「墨水源流」など数多くあります。(平成15年3月 墨田区教育委員会より引用)『井伊直朗墓』越後与板藩の第6代藩主。直勝系井伊家10代。『地蔵尊』『石碑と亀』『牛頭社王子権現跡』『裏門』弘福寺はもともと隅田川とは繋がっていなかったようですが、川沿いの牛頭社王子権現(現牛島神社)が移転したため、一時は隅田川沿いから入れてようです。しかし、隅田川堤に高速道路ができこの入口は開かずの扉になってしまったと思われます。『長命寺の桜餅』

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    • 瑞聖寺

      瑞聖寺黄檗宗 瑞聖寺山号 : 紫雲山宗派 : 黄檗宗寺格 : 単立本尊 : 釈迦如来創建年 : 寛文10年(1670年)開山 : 木庵性?開基 : 青木重兼所在地 : 東京都港区白金台3-2-19江戸黄檗宗寺院最初創建の伽藍紫雲山瑞聖寺は、本山である黄檗山萬福寺の開山隠元の弟子木庵和尚(萬福寺第ニ世)を開山として、寛文10年(1670)に創立された。伽藍は青木甲斐守によって寛文10年5月より建立が開始され、翌11年4月には山門・大殿・方丈・左右大小寮舎が落成し、同年6月15日に木庵を請じて開山とした。延宝8年(1680)には下谷池端瑞錦袋円の元祖了翁僧都により経蔵が建立され、唐本の一切経が納められた。また同年冬には僧堂が落成している。塔頭の竹巌院は、開基青木甲斐守によって天和3年(1683)に開創され、さらに当寺第ニ世鉄牛和尚によって微笑院、第三世慧極明和尚によって慈光院が建立された。その後瑞聖寺は再々火災に見舞われた。文献上から知れる火災は、享保11年(1726)が最初であり、このとき大殿、山門、方丈、左大寮舎、微笑院を焼失した。そして享保14年(1729)には大殿の再建に着手し、同17年(1732)に上梁している。また同16年(1731)に方丈、同18年(1733)に開山堂を再建し、次第に伽藍を復興していった。しかしながら、第二の火災が延享2年(1745)にあり、おそらく創建当時の伽藍を完全に復興する以前に羅災し、再び諸堂を焼失したであろう。延享の火災後、宝暦7年(1757)に仏殿が再建され、明和2年(1765)に天王殿、同5年(1768)に開山堂、同6年(1769)に鐘楼、 安永2年(1771)に祠堂、同9年(1780)に斎堂兼庫裏、文化元年(1804)に禅堂がそれぞれ再建され、文政11年(1828)には、仏殿、天王殿、方丈、禅堂の他に庫裡、惣祠堂、経蔵、鐘楼、門番所付表門および裏門、諸候方霊屋八宇、鎮守八幡宮などの建物、あるいは徹笑院、竹巌院、慈光院などの塔頭が整備され、瑞聖寺創立以来再び、江戸名所図会にみられるような壮大な伽藍景観が形成されたといえよう。この壮大な伽藍は、それほど長く維持することができず、安政2年(1855)の大地震、同3年(1856)の大風雨により諸堂が大破し、おそらく明治維新の大変革期にさらに諸堂を失ったであろう。明治期の瑞聖寺は、明治10年(1877)の境内絵図面に書かれている大殿、庫裡、霊屋二棟、祠堂、表門、裏門がかろうじて残ったにすぎず、 その後旧規に復興することもままならず、わずかに明治18年(1885)に鐘楼が再建されている。戦後、昭和42年(1967)に庫裡が、新しく寺務所を兼ねて建て替えられ現在の状況に至っている。また昭和59年(1984)に大雄宝殿が東京都有形文化財に指定され、平成4年8月(1992)に国指定重要文化財し指定され、現在に至っている。本尊は釈迦如来であり、脇士として阿難・迦葉が安置されている。<瑞聖寺hpより引用>『寺号標柱』『裏門』『地蔵堂』『達磨堂』『鐘楼』『参道』『大雄宝殿』『大雄宝殿内陣』『布袋尊(山手七福神)』『大雄宝殿説明板』『ご本尊説明板』『大雄宝殿扁額』『開梆』『雲板』『庫裡』『報恩堂』『開山堂』『灯籠』『瑞聖寺後庭築假山記碑』『石造五重塔』『石仏』『石仏』『附の旧通用門』『東門』

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  • 08Apr
    • 聖福寺

      聖福寺黄檗宗 聖福寺山号 : 万寿山宗派 : 黄檗宗寺格 : 長崎四福寺本尊 : 釈迦三尊創建年 : 延宝5年(1677年)開基 : 鉄心道胖別称 : 広東寺所在地 : 長崎県長崎市玉園町3-77長崎市玉園町にある黄檗宗の寺。万寿山と号する。通称広東寺。本尊は釈迦三尊。1678年(延宝6)唐僧木庵禅師の高弟鉄心道胖が、長崎奉行や中国紳商の帰依を受けて伽藍を建立したのが創始で、のち肥前国主鍋島氏の陣屋となった。明治初めまで、長崎にある唐三か寺(崇福寺、興福寺、福済寺)の監督寺であった。広大な境内に本堂(大雄宝殿)、山門、天王殿、鐘楼、じゃがたらお春碑、茶筌塚などがある。梵鐘は「鉄心の大鐘」とよばれ九州第一の巨鐘である。『山門』『山門扁額』隠元禅師筆の「聖福禅寺」の扁額が掛かる。元禄16年(1703年)に建立。『惜字亭』不要になった書簡や御札等を燃やしていたのではないかとされています。漆喰で分かりにくいですが、小菅修船場跡の曳揚小屋(引き揚げ小屋)に使われている赤レンガと同じ時代の物が使われている。『地蔵堂』『天王殿』『天王殿扁額』『天王殿 弥勒菩薩座像』『鐘鼓楼』梵鐘は「鉄心の大鐘」と呼ばれ、享保2年(1717年)、聖福寺2代目住持、暁巌元明のときに改鋳したものであるが、元禄7年(1694年)初代住持・鉄心道胖のとき、初めて梵鐘が造られたが、鉄心が有名であったので、今日までこの改鋳された梵鐘も俗に「鉄心の大鐘」と言い伝えられている。『石門』『大雄宝殿』『大雄宝殿』『大雄宝殿内陣』『大雄宝殿扁額』『寺務所』『開山堂』『茶筅塚』『鬼塀』『鬼塀』『じゃがたらお春の碑』「じゃがたらお春」ことジェロニマお春は、1625年に上筑後町(聖福寺近く)で生まれた。一説によれば、父親はイタリア人航海士ニコラス・マリン、母親は貿易商で築町乙名(おとな)小柳理右衛門の娘とされ、母親はお春を産むとすぐにこの世を去り、父親のニコラスもお春を祖父の理右衛門に託しオランダへ戻ってしまったので、理右衛門が養父となりお春を実の子同然に育てていたらしい。1636年に「紅毛子女追放令」で長崎在住のポルトガル人をはじめ西洋人との間に生まれた混血児たちが次々と奉行所へ集められた。同年、子どもとその母親たち287人が4隻のオランダ船で長崎からマカオに追放されている。このような状況の下、理右衛門はお春を自分の子として必死に隠し通そうとしたが、結局3年後の1639年、お春は3歳年上の姉マグダレナ万ほか同じ境遇の32名とともにオランダ船で長崎から平戸を経由してバタビア(現在のジャカルタ)へ送られた。このように国外へ配流された日本の“受難の人々”は319人にも及んだ。当時、15歳のお春がバタビアから密かに長崎の幼馴染のお辰に宛てて書かれたとされる「じゃがたら文」には「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや」と望郷の思いが綴られている。『市川家先祖供養塔』市川家先祖供養塔。借字亭の横に安置されている供養塔。天保6年に7代目市川海老蔵が長崎に訪れた際に建てたもの。側面に7代目市川海老蔵と8代目市川團十郎連名で刻まれている。『石碑』『石碑』『いろは丸事件談判説明板』『いろは丸事件』1867年、鞆の浦沖の瀬戸内海で、龍馬率いる海援隊の蒸気船「いろは丸」と紀州藩の軍艦が衝突した事件。いろは丸は沈没し、賠償金を巡って龍馬と紀州藩が鞆の浦で談判を繰り広げた。「いろは丸」は海援隊が借用するまでの間は、赤地に白の蛇の目の紋旗を掲げて、数回に亘り海運業としての航海を行ったが、其の運用には菅野覚兵衛や、渡辺剛八、橋本久太夫、腰越次郎と云った亀山社中の同志があたっていた。慶応3年4月23日午後11時頃、いろは丸は最初の航海で瀬戸内海の備中・六島沖を航行中、紀州和歌山藩船・明光丸と衝突し沈没。明光丸は紀州和歌山藩が、15万5000ドルかけてイギリスから購入した、150馬力、880トン、鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船である。積載量は160トンあり、いろは丸の実に6倍近い巨船でありました。明光丸は一度いろは丸に衝突した後、あわてて後退し、またもや前進して二度にわたり衝突したといいます。いろは丸は自力航行不可能となり、坂本龍馬率いる海援隊乗組員が明光丸に乗り移った後、備中・宇治島沖で沈没しました。

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    • 興福寺

      興福寺黄檗宗 興福寺山号 : 東明山宗派 : 黄檗宗寺格 : 長崎四福寺本尊 : 釈迦如来創建年 : 1624年(寛永元年)開基 : 真円別称 : あか寺、南京寺所在地 : 長崎県長崎市寺町4-32中国・明の商人が長崎に渡来しはじめた頃の元和6年(1620年)、中国僧真円が航海安全を祈願してこの地に小庵を造ったことに始まります。(日本初の唐寺)江戸時代初期の長崎は、幕府の朱印船、唐船貿易の奨励により、ヨーロッパ諸国、イスラム、アジアなどの冒険商人や物資が集まる国際都市となりましたが、なかでも中国からの来航者は圧倒的に多く、市民の6人に1人は中国人というほどで、出身地別に寺を建立したのが興福寺をはじめとする崇福寺、福済寺などの長崎唐寺の始まりです。また、この時代は、キリスト教禁令が厳しくなり、長崎在住の中国人にもキリシタンの疑いがかかったため、仏教徒であることを誇示するためにも、つぎつぎと唐寺が建てられたともいわれます。1641年に確立し、200年あまり続いた鎖国時代、中国とオランダのみに門戸を開いた唯一の開港地長崎では、市民一丸となって貿易に従事し、貴重な海外の文物を日本にもたらしました。とりわけ唐船の活躍はめざましく、長崎はおおいに潤い、南京を中心とした大船主や貿易商を檀家とした興福寺は最盛期を迎え、大きな堂宇が建ち並び、僧俗男女が参集する禅の一大センターとなリました。江戸時代の長崎は幕府直轄地として、幕府が任命する奉行、目付などが置かれましたが、貿易都市として外交、行政、通商を直接担当して実力があったのは地元長崎人でした。この中にあって、外交官的役割を担って活躍したのは、唐通事、阿蘭陀通詞と呼ばれる人々で、興福寺の有力檀家衆の家系からも高名な唐通事が輩出し、代々興福寺を支えたと伝えられます。唐僧の渡来は、1700年代中頃にはなくなり、九代竺庵和尚以後の10代より日本人が住職となり、現在32代に至ります。幕末より今世紀へかけての急速な近代化、日清戦争、日中戦争、世界大戦などにより長崎は大きな影響を受けました。興福寺も、帰国や離散などにより戦後は中国人檀家はわずか数軒となりました。しかし、幸いにも、長崎原爆で大きな被害を受けたものの焼失をまぬがれ、ゆったりとした往時の唐寺の雰囲気を今に伝えています。<興福寺HPより引用>『山門』『山門扁額』『山門扁額【初登宝地】』『大雄宝殿(本堂)』『黄檗天井といわれる蛇腹に組まれた天井』『瑠璃燈』『三江会所門』『三江会所門豚返しの敷居』『竹林庭園』『中島聖堂遺構大学門(杏壇門)』『大成殿』『大成殿聯額』『庫裡』『魚板(鰍魚』『魚板(鰍魚』『納経所』『氷裂式組子の丸窓』『鐘鼓楼』『旧唐人屋敷門』『媽姐堂(海天司命堂)』『媽姐堂(海天司命堂)内陣』『歴代世の墓』『斉藤茂吉の歌碑』『虚子・藺花の句碑』『有馬朗人の句碑』『森澄雄句碑』『弘法大師を祀るお堂』

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  • 07Apr
    • 福済寺

      福済寺黄檗宗 福済寺山号 : 分紫山宗派 : 黄檗宗寺格 : 長崎四福寺本尊 : 釈迦如来創建年 : 寛永6年(1628年)開基 : 覚海別称 : 漳州寺、泉州寺所在地 : 長崎県長崎市筑後町2-56戦前は国宝に指定されていた由緒ある唐寺崇福寺、興福寺、聖福寺と共に長崎四福寺といわれる黄檗宗の唐寺。寛永5年(1628)、唐僧・覚悔が弟子である了然と覚意を伴い長崎に渡来し、現在地である岩原郷に媽祖聖母(航海の神様)を祀ったのが起源とされていて、キリシタン教徒禁制の高潮に達していた当時キリシタン教徒でないことを証明するために在住する唐人達が地方別に建立した寺院のひとつ。福済寺は明国ちゃく州人の檀家が多かったという。福済寺の建造物は、戦前は国宝に指定され、長崎三大唐寺(聖福寺を除く三寺)といわれていたが、原爆によって全焼した。現在の堂宇は、昭和27年先代三浦実道禅師によって、戦後初めて本堂兼庫裡として、大書院跡地に建造され、昭和54年に、元国宝大雄宝殿跡地に、鎮魂慰霊の殿堂として萬国霊廟長崎観音が造営された。『寺号標石』『火除自蔵』『石塔』『鐘楼門』『鐘楼門如意棒をくわえた獅子の面』『鐘楼門経巻を鼻に戴く白象』『鎮魂の鐘』『本殿』『本殿扁額』『陸奥鉄』「陸奥鉄」は、先の大戦での日本海軍の戦艦「陸奥」の船体に使われていた鋼鉄です。戦艦「陸奥」は大戦中に広島沖で停泊中に謎の爆発事故を起こし沈没してしまいます。戦後になって引き揚げ作業が行われ、日本各地に「陸奥鉄」 が存在します。『雲版』原爆で七堂伽藍と共に焼け、熱と重圧で変型し片耳が焼け落ちてしまった鐘が残されている。『フーコーの振子』世界で三位の振子の長さを持つ振子の長さは25.1メートル、重りの重さは32㎏。観音様の頭からぶらさがってます。長い振り子(通常10m以上)の底に質量の大きいおもりをつけたもので、地球が自転していることの証明に使用される。『観音堂』『鉄兜の慰霊碑』『半鐘』『庭園』『忠魂碑』『悠久世界平和碑』『石塔』『万国霊廟長崎観音』『石仏』『寺務所』『唐人墓地』『説明板』

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