京都寂光寺

 

 

顕本法華宗  寂光寺

 

 

山号 : 妙泉山

宗派 : 顕本法華宗

寺格 : 本山

本尊 : 本門寿量十界大曼荼羅

創建年 : 1578年(天正6年)

開山 : 日淵上人

 

 

所在地 : 京都府京都市左京区北門前町469

 

 

安土桃山時代の1578年、妙満寺26世・久遠院日淵が室町近衛に久遠院を創建したのが始まり。
翌1579年、日淵は浄土宗との安土宗論に敗れ、寺を弟子の日海に譲り、以後は弟子の教育に力を注ぎ、
日海は名僧として法華宗の発展に大きく寄与する。
安土宗論とは、1579年織田信長の命により、安土城下の浄厳院で行われた
浄土宗と法華宗の各3名の僧による宗論です。
法華宗は信長の意図的な介入によって敗れたとされ、処罰者を出し、
以後他宗への法論を行わないことを誓わされました。
1590年豊臣秀吉の命により久遠院は京極二条に移転、翌年妙泉寺を寺内に移転合併し、

寂光寺と改称しました。
寂光寺2世となった日海は京都の舞楽宗家・加納與助の子として生まれ、
8歳で叔父・日淵に師事して出家しました。
囲碁を堺の仙也という老人に習い、敵手がいない程強くなり、1578年織田信長に「名人」と称されました。
1588年には豊臣秀吉が主催した全国大会で勝ち抜き20石20人扶持を与えられました。
1592年後陽成天皇より権大僧都の位を授けられ昇殿を許されました。
本堂には本尊・本門寿量十界大曼荼羅を安置しています。
1603年徳川家康が幕府を開くと、江戸に招かれました。
将棋も強く、囲碁と将棋の総元締めの碁所・将棋所に任じられました。
後に将棋所は知友の大橋宗桂に譲ったとされます。
江戸で囲碁の家元の始祖となり、本因坊算砂を名乗りました。
「本因坊」は寂光寺の塔頭の名で、日海の京都の住まいでした。
また、1611年に僧侶としての最高の「法印」の位を授かりました。

 

『山門』

 

『由緒書』

 

『第一世本因坊報恩塔』

 

『鐘楼』

 

『本堂』

 

『方丈(庫裡)』

 

『客殿』

 

『歴代墓碑』

 

『2世日海上人碑』

 

『寺町通りにある本因坊発祥の地の看板』

 

『本因坊発祥の地』
行願寺(革堂)の向かいにあります。

 

 

<本因坊>
もとは京都寂光寺の開祖日淵の坊号。
初め本因坊日雄といっていたが、久遠院を称するにあたり甥の日海 (1世本因坊算砂 ) にそれを譲った。
寂光寺に本因坊という塔頭 があり日海はそこに住んでいたといわれる。
彼は碁の名手で、その坊号「本因坊」はやがて江戸時代の家元「本因坊家」の姓となった。
昭和初期まで上方風に「ほんにんぼう」といいならわしていたが、
第2次世界大戦後急速にふえた囲碁ファンは「ほんいんぼう」と呼替えてしまった。
江戸時代、本因坊家は棋院四家の長格であった。
また算砂は本因坊を京都から江戸へ移した。
「本因坊」は人 (本因坊家の当主) と建物 (本因坊の住居または道場) の2つを意味する言葉になった。

 

 

 

<日什門流八別格本山>

会津妙法寺     福島県会津若松市馬場本町3-34
会津妙国寺     福島県会津若松市一箕町大字八幡字墓料78
品川本光寺     東京都品川区南品川4-2-8
品川妙國寺     東京都品川区南品川2-8-23
飯田本興寺     神奈川県横浜市泉区上飯田町3624
吉美妙立寺     静岡県湖西市吉美2745
見付玄妙寺     静岡県磐田市見付町2440-1
京都寂光寺     京都府京都市左京区北門前町469