井上淳氏の2022年2月の投稿より
「福原」神戸の元遊廓・色町の福原。
あの神戸・「福原遊廓」の創設者はなんと、元兵庫県初代知事で1909年10月、ハルピン駅前で安重根によって「処断」された伊藤博文、その人だと言われている。
明治の元勲の一人、伊藤博文は1868年、県令によって福原遊廓の設置を指示した。
その設置目的はもっぱら、訪れる外国人懐柔策の一つとして、日本の女性を利用したのだ。
まさにペリー来航時の下田における、日本女性たちの苦難を思い起こす。
それから始まる兵庫の日本女性たちの言い知れぬ苦難の原因は、伊藤博文だということだ。その意味でも安重根の伊藤博文「処断」は、まさに適切で、女性たちの苦難解決の一つかかもしれない。
さて日本におけるまさに「世界に冠たる」女性性差別の根源「遊廓」の設置は、豊臣時代の1589年京都・「島原遊廓」に始まると言われている。
もちろんその前の室町時代においても、性を生き延びる糧とした遊女はいたかもしれないが、制度としては、島原が最初だということだ。
それから約400年余、延々と継続しているこの悲劇、女性にとっては耐えられない惨劇は、今も様々と形を変えて継続されている。
いわゆる「飾り窓」で知られる、欧州の歴史との比較の資料は持たないが、あまりにも長すぎて過酷であり、どう合理化することもできない。
この歴史はおそらく、私たちが位置する東アジアの中でも特異ではないだろうか?
そしてその特異性が、日本の植民地政策や、戦争政策によって極肥大化し、システム化し、それが植民地や占領下の各地での女性たちの、あまりにも多大な、性被害に結び付いた。
それが日本軍「慰安婦」問題の根源であり、またそれと同時並行的に行われた「産業慰安婦制度」被害である。
今私たちは、どうしても遅々として進まない日本軍「慰安婦」問題に目を取られてしまうが、産業「慰安婦」問題はさらに根が深い。
戦争の本格化に伴い、日本本土の人材は枯渇状態に入り、朝鮮など植民地や満州など占領地からも、徴用や強制連行などによって軍人・軍属、炭坑や工場に、大量の朝鮮の人々が、日本本土や占領地に送り込まれた。
その時、朝鮮総督府などが思いついたのが「産業慰安婦制度」である。
年端もいかない、まさに性も知らない12歳や13歳の朝鮮の少女たちが、日本各地の工場や炭鉱、また工事現場に「賄い婦」や「酌婦」などの名目で送り込まれたのだ。
そして「性」を、絶えず失わされ続けたのである。
故郷を遠く離れ、まともに言葉すら話せない少女たちが必然的に頼ったのは、同胞の朝鮮人労働者だった。
それが「産業慰安婦」制度であり、また必然的に日本国内における日本軍基地での、日本軍兵士相手の「慰安所」だった。
そこには先輩格の日本人女性もいただろう。だがそれらを頼ることなどほとんど不可能だった。
私が以前、韓国の「日帝強占下強制連行被害真相委員会」からの依頼を受けて、申告された女性たちの被害状況を調べたとき、その対象はこの「産慰安婦制度」の被害者であり、被害者が動員された工場や港湾、そして「慰安所」だった。
日本国内にある日本軍の基地には、朝鮮人女性たちがメインとなる「慰安所」が多かった。
それは海外の日本軍占領地の「日本軍慰安所」と何ら変わることがなかったのだ。
いわゆる韓国併合以前の「開港」から、植民地下、占領下における日本軍「慰安婦」問題と、この日本国内における「産業慰安婦」制度は、全くの同格である。
韓国の女性の告発によって表面化した日本軍「慰安婦」問題と同様に、ただ見えなくされ続けてきたに他ならない。
先に紹介した「朝鮮料理店・産業『慰安所』と朝鮮の女性たち」は内容豊富で素晴らしい告発の本だ。
だがこの最新刊を読み終えてやはり、1970年から1990年にかけて、精力的に取り組まれ書かれた、千田夏光さんや、金一勉さん、山谷哲夫さん、そして「フィクションが多い」として朝日新聞に切り捨てられた吉田清治さんの著者などが、とても参考になることを、改めて感じ取ることとなった。
私たちが未だ解決に遠く及ばない、日本軍「慰安婦」問題と、この「産業慰安婦」問題、そして何よりも「日本人慰安婦」問題は同根であり、同じ問題で、私たちの前にどんと立ちふさがって、頑強で未だ微動だもしていない。
今私が読んでいる古本の一つ「いろまち燃えた・福原遊廓戦災ノート」は、1997年にお亡くなりになった君本昌久さんが1983年に書かれた神戸・福原に対する詳細で、正直、凄い内容を持った告発の書である。
こんな本を読まず在庫にしておくなど許されたものではない。
改めて君本さんに感謝したいし、やはりもっと福原のことを、また日本に点在する遊廓や性産業に、恐れず真っ向から立ち向かってゆきたいと思っている。