今回再掲載する記事は次回の新作記事に関連したもので、上村俊之という男がどれだけ底が浅く幼稚で身勝手な人間であるかが見えてくる記事だと思う。
以下
「フザけるな!目に余る上村町長の広報かみじま私物化」
記事本文↓
これまで何度も触れてきた、毎回の議会冒頭で上村町長が延々とワンマントークショーを展開する「行政報告」。
その内容は、自分の自慢話と、白々しく心にもない歯の浮くような美辞麗句、そして、上村が熱愛する自民党の足を引っ張る野党の悪口等々。
特に、野党の悪口といえば、民主党に政権を取られた時は、これでもかというくらい、執拗に民主党への恨み辛み発言を繰り返し、実に見苦しい限りだったことを思い出す。
とにかく
○自分に都合の良いことばかりを
○議場の人間やケーブルテレビ視聴者等の迷惑も省みず
○感情のままに自分に酔いしれながら
延々とベラベラとしゃべくり続ける。
それが上村の「行政報告」の実態なのだ。
て、いうか、今さらながら
これのどこが「行政報告」なのか?
と、毎回思う次第で、それこそ、この際思い切って、「議会恒例上村俊之ワンマントークショー」と相応しいネーミングに変えてもらえれば、まだ少しはすっきりするというものだ。
もはや、毎回のトークショーは、ある意味
上村町長による議会私物化
の象徴と言ってよい。
大切な議会の時間を30分も誰にも邪魔されることなく持論を展開するという、行政報告という名の皮を被せた単なる議会の私物化。
私物化と言えば、先日、上村が町の緊急防災一斉メールを私物化した旨の記事を書いたが、この他にも上村は様々な公的情報ツールの私物化を行っている。
そんな中、今回取り上げる「広報かみじま」もその一つだ。
上村は、大切な町民に対する広報紙面を私物化して「こんにちは町長です」なるコーナーを勝手に作り、例えば、上記の議会における「行政報告」のように自分の思い通りにならない改革派議員の評判を貶めるようなものや、責任転嫁、自分のイメージアップになりそうな戯言など、自分の文章に酔いしれながら、さんざん利己的なアピールに利用している。
しかも、毎回自分の顔写真を入れてくる厚かましさが本当に上村らしい。
それで、最新号である2015年3月号の文章は以下のようなものだった。
昨年末、父が他界し、私と妻の親は誰もいなくなってしまいました。今までは親に守られてきましたので、大きな寂しさと共に次は両親から受けた恩を、少しでも次の世代に返さなければならないという思いがあります。
父は昭和九年、七歳の頃、旧越智郡関前村から祖父家族全員で、この上島町弓削島に移住してきました。昔のことですから、慣れない土地ということもあり大変苦労したようですが、地域の方々に可愛がられ一生懸命働くことで信頼を築き、私の代に繋いでくれました。私が小さな頃、農業だけでは暮らしていけないので、母は小売店を営み「お好み焼き」も焼いていました。今でも一部が破れたそのお好み台の側で、足が届かないイスに座っていた自分を思い出します。
私が中学に入学する前後に「誰もやってくれないので、汲み取りとゴミ収集の仕事を引き受けてくれないか。」との役場からの依頼を父が受け、私も手伝いました。辛いこともありましたが、これも地域の為、家族の為にと頑張りました。母も猛暑の夏や極寒の冬空の下で、働くだけ働いて先に逝ってしまいましたが、二十年ぶりの父と仲良く幸せにやってくれていると信じています。
父や母が愛した上島町に貢献することが、私のできる両親への恩返しです。この上島町で育ててくれた両親に感謝しています。
上島町長上村俊之
こんなことを町の公的な広報に完全公私混同で長々と書く驚くべき神経。
町民全員が自分のファンとでも思っているのだろうか?
誰もやらないから汲み取りとごみ収集を引き受けた?
地域のために頑張りました?
どんな仕事であろうと金儲けのためにやったんだろうが。
それこそ職業選択の自由だろうが!
それで食ってただけだろうが!
食うために仕事をするのは誰でも同じだろうが!
まるで自分が町のために犠牲になっていたかのような物言い。
何を勝手に美化するようにこじつけているのか!
上島町に貢献することが両親への恩返し?
なんですか?これは。
だから
これからも俺に町長をやらせろとでも言いたいのか?
よくもまあ、このようなことを恥ずかしげもなく「町の広報紙」に書くとは、あたかも、町民の中で
自分やその一族だけが苦労したかのように主張し、自分は苦労人だから町長に相応しい
とでも言わんばかりである。
こんな白々しい自己中心的な文章で、多くの町民が感動し自分への好感度が上がるとでも思っているのか?
そして、いつものように思いっきり自分に酔いしれている上村の底の浅さが手にとるようによくわかる。
こういうものは公共的な町の広報ではなく「自分の後援会会報」にでも書け!
そんな最低限の常識もわからないのか?
自分の好感度上昇という目論見のために、自分の親御さんまでも安易にネタにする軽薄さ。
そもそも、もしも本当に、上村が両親との思い出を大切にしているのならば、広報紙なんかで軽薄にひけらかしたりはしない。
故人との大切な思い出は、心に秘めるものであり、むやみやたらと軽々しく、ベラベラと他人にひけらかすものではないはずだ。
心に秘めることにより、本当の意味で、故人は残された人間の心の中で、いつまでも尊い存在として生き続けることができるのではないか!
町長のお母様は、あの世で幸せに暮らしているどころか、現在の息子の私利私欲にまみれた、税金私物化などの悪事の数々や、見栄や名誉欲により故郷の町を利己的に食い物にし、負債を増加させ破壊してゆく様子を天からご覧になって、嘆いていらっしゃるのではないか?
改めて、今一度、自分が現在繰り広げている悪事の数々を省みながら、胸に手を当ててよく考えてみるべきだ。
そして、存命中も、親御さんは晩年まで、町長としての自分のイメージアップのために久司浦のおやくっさんなど町内の行事等に「動員」され、車椅子に乗せられ引き回される姿が非常に痛々しかったことを記憶している。
ニコニコと不自然な作り笑いを町民に振りまく上村本人と対照的に、車椅子の上で、不愉快そうにぶすっとした、しかめっ面の親御さんの表情が全てを物語っているように見えた。
少なくとも、高梁はそんな様子を見て、車椅子の上の老人を気の毒に感じずにおれなかった。
年老い、体が不自由になった親さえも、自分の利益のために道具のように使用する上村に嫌悪感を覚えた。
そして今、死してなお、自分のイメージアップのために軽々しく親を利用する根性。
改めて、この男にこれ以上、大切な故郷を支配させ続けてはならないと痛感した。