今朝方、叔父、梅宮辰男が、その81年の人生に幕を下ろしました。



寂しい。





まだもう少し。まだ少し早い気がします。





最後の病名は慢性腎不全。
華やかな世界で生きた裏では、若い頃に患った胃癌から始まり、病気や怪我の多い方でした。
それでもその都度生還し、現場復帰を果たしてきた辰夫叔父。



しかも驚くべきことは幾度の闘病にも枯れることのなかった華やかさ、おおらかさ、優しさ。



そして瞬間瞬間を楽しむ心。



東映ニューフェイスとしてそのキャリアをスタートさせ、華やかかりし往年の映画界をスターとして過ごしてきた辰夫叔父。




若かりし頃にはヤンチャな頃もあったようですが、後となってはそれも勲章。




僕が知る叔父は、胃癌からの生還後、
変わりゆく時代の流れの中で悩んだ挙句、
倉本聰先生の「前略おふくろさま」に出演、
映画界からテレビへの移行を果たしたあとの叔父。



そしてアンナが生まれてからはほんとうに子煩悩、家族のために切り替え活動する姿が印象的でした。



「前略」の現場を見学させてもらった時の事は、後にトラウマとなって、僕の一生にとって大きな出来事となりました。



しかし、芸能界に入りたいがどうしたらいいかと話を聞きにいった時には迷わず



「やめておけ」と。



お前みたいな地味な顔はこの世界ではやっていけない、と思ったんだ、と後にに笑って話してくれました。



でも実はな、当時、俺もとても大変な時期でもあったしな、と、この世界で生き抜く大変さをも言いたかったとも。



お前はしっかりした家庭なんだからしっかり大学を出てしっかりカタギになれ、と。笑



しかし、かの「仁義なき戦い」
の最後の作品となった、2002年に撮影した続編の出演が決まった折、1番に辰夫叔父に挨拶をと電話をかけると



「あれは俺たちが本当に精魂込めて、生命削るようにして作った作品だからな、ちゃんとやってくれよ。」


と渡されたバトンはとても重いものでした。



そして当時沢山の逸話のあった伝説の東映京都太秦撮影所の門をくぐると、演技事務の方が
「辰兄ぃから電話をもらったよ」と。
僕には何も言わず、よろしく頼むと電話を入れてくれてたんですね。



叔父にやめておけと言われ、ならば自分でやってやると奮起し、自分で探し、出逢い、やってきたことはとても価値があるものとなりました。



叔父が、どこか見えないレールをひいてくれたことを感謝してると、テレ朝のドラマ撮影の合間に話しました。



そう、その作品は15年近くも続き、一緒に仕事をすることができ、合間にはいろんな話をすることができました。




明るくおおらか、朗らかで優しく義理堅い、
そんな方でした。



先月の僕の母の葬儀の際も、悪天候の中、ご自分の身体がキツいはずにも関わらず、参列してくださいました。



以前にも、ご自分の具合が悪かった時に、知人の方の激励に、見舞いに行ったよと話していたこともありました。



親交のあった沢山の方々の中にも梅宮辰夫さんのそんな人柄が大好きだったのではないかと思います。



大好きな叔父でした。




俺は芝居が下手だからなぁ、と言いながらも、
具合が悪く、うまくいかなかった次の病み上がりのクールでは、長い説明台詞も完璧に覚えてこられ、1度のNGも出さずやりきられた姿にやはり俳優の意地を見せていただきました。






想い出話は尽きませんが、





あのおおらかさに触れられないと思うと、

今本当に寂しいです。




最後に会ったのは、最後の入院の最終日。

2度目の見舞いに行くはずだったのですが、

「明日退院だし、もうじっとしてるのは飽き飽きだから、これから買い物に行くぞ!」と病院を抜け出し、青山の紀伊國屋で待ち合わせ、

「あとどれくらい生きられるんだからわからないからビビってどうするんだ、俺は変わらず楽しんで過ごすんだ」と一緒に買い物をすることに。



会計の時、退院祝いとして僕がプレゼントさせてもらいますよというと、
「ありがとう、嬉しい。」ととても喜んでくれました。





冥福を祈りますという気にはまだなれず。





本当にお疲れ様でした。



とだけ。











さっき会ってきました。



静かに眠るように安らかなお顔をされてました。





今夜、まだ眠れません。