あんた、文系人間でっか? | 「京大」を7回受け、英語8割の英検1級講師「京大セブン」が添削したら、10年連続「京大」合格(うち4名は医学部医学科)。

「京大」を7回受け、英語8割の英検1級講師「京大セブン」が添削したら、10年連続「京大」合格(うち4名は医学部医学科)。

 訪問していただき有り難う御座います。このブログでは、京都大学、大阪大学、名古屋大学、国立大学医学部に合格できる学力をつけるためのアイディアを真摯に書かせてもらっております。

「京医4名、阪医4名合格講師」による受験対策講座(713)

 学校革命=スクールレボリューション(404)

 うちの亡き父はウザかった。高校入試の合格発表についてきたし、就職したら2時間以上かけて勤務しとった塾まで挨拶にきた。


 高校2年生の時までは、理系に進むつもりやった。ロボットを作りたかった。せやけど、四日市高校は当時男子の割合が高うて男子クラスがあり、うちはその男子クラスに放り込まれた。


 今もその傾向があるけど、当時も男子生徒は理系が多うてうちはその中で理系に行くんが当然や思て勉強しとったけど、数学の勉強を始めるとめまいがするような感じがし始めた。


 そら、公式の成り立ちを納得してへんのに無理やり使わされることに生理的な拒否感が生まれたんやて。模試の結果によると、文系やったら難関国立大に合格できるけど、理系やとそこまではムリちゅう結果。泣く泣く「教育学部」に進むことになった。


 生きていくには英語講師になるしか選択の余地はなかった。せやけど、その英語でも真摯に向き合うと問題だらけやった。


  最初に
「なんかおかしいねん」
 と気づいたのは、1982年にアメリカのユタ州ローガン中学校で社会の授業をしてる時。同席しとったネイティブの教師が、しばしばうちの授業を中断して生徒に向かって説明し始めた。


「ミスタータカギが今つこた単語の意味はな、---」
 と解説を始めた。ほんで、一番仲のよかった理科教師のアランに
「なんでうちの授業を中断するんかいな?
 と相談したら
「自分の英語は綺麗やけど、ビッグワードを使いすぎなんや」
 とアドバイスをくれた。

 

 ほんで、注意して職員室の会話やらを聞いてると、確かに中学レベルの英語をつこてる。わしが受験勉強で習うた難解な単語やら全く出てけえへん。


 not more than と no more than の違いやら、使えへんのやさかいどうでもよかった。うちの塾生たちは、高校で与えら得た「システム英単語」をつこて単語をいっぱい覚えてるけど、多分ムダになる。


  アメリカから帰国したうちは公的な資格を取ろう思て、なんしか英検1級の過去問を書店で入手した。ほんで、知れへん単語や表現を見つけてウンザリした。


  もはや、高校生の時のように
「頑張って勉強せんと」
 とわしを責める気になられへんかった。うちはネイティブの助けを借って問題を解き始めたけど


「こらなんや?なんで、日本人の自分がこんなんを」
 言う。ほんで、
「どういう意味?」
 と尋ねったら
「こら、シェークスピアの時代の英語やで」
 と笑うとった。


 せやけど、アメリカから名古屋にある7つの予備校、塾、専門学校に履歴書を送付しても全て無視されたさかい、うちは日本の英語業界で認知されてる資格を取らざるをえなかった。


 事実、英検1級を取ったらどの予備校、塾、専門学校も返事が来るようになった。結局、コンピューター総合学園HAL、名古屋ビジネス専門学校、河合塾学園、名古屋外国語専門学校やらで14年間非常勤講師をすることになった。


 その間に出会うた英語講師の方たちの中に、英検1級を持ってる人はおれへんかったし、旧帝卒の講師の方もおれへんかった。資格を持たな雇うてもらえへんちゅううちの見方は誤っとった。


 うちはその頃には受験英語をほかしとった。どの資格試験の英作文も面接試験も、すべてアメリカで使うとった英語で通した。つまり、中学生レベルの英語をつこて難解な内容を表現する英語やった。


 ところが、今はまた受験英語を指導してる。高校の入試問題も、大学の入試問題も30年前からなんも変わってへんねん。受験参考書の構文も、相変わらず take it for granted that や not until の世界やねん。
 

 日本にやってくるALTが増えて、
「日本の教科書はクソや」
 やら
「英語が話されへん教師が英語を教えてる!」
 言うても誰も耳を貸せへん。

 

 ほんで、偏差値追放、小学校から英語を、と意味不明の政策を打ち出す。うちのいる予備校、塾業界も暴走族講師やらマドンナ講師やらパフォーマンスばっかり。


 ほんで、それマスコミが煽る。賢い生徒はあきれ返って「マスゴミ」て揶揄してる。
 せやけど、一体いつまでこのようなアホな状況が続くんか。


 やけど、ほんまに英語教育界にまともな人はおれへんのやろか?うちが四日市高校や名古屋大学の教育学部で出会うた学生の中にはまともな人もおった。ほんで、日本一レベルが高い東大や京大を受けてみることにした。


 

 京大は英語の試験が和訳と英作文ちゅう珍しい大学や。ほんで、まず「京大模試」てZ会の「京大即応」を受講してみた。京大模試は河合、駿台、代ゼミやらを10回。Z会は8年間やって、じっくり研究してみた。


 ランキングに載り、Z会からは「六段認定証」っちゅうのももろたけど、毎回の添削は納得がいけへんかった。京大模試の採点も同様や。ほんで、
「いったい、だれが採点してんだ?」
 思い調べてみた。せやけど、企業秘密で分かれへん。ただ、わしが勤務しとった予備校の講師レベルやろうとは推測できた。受験参考書どおりの訂正がなされとったからだ。


 京大を受けた時は、最初の2回は「受験英語」で書いてみた。すると、6割正解くらいやった。うちの英語がそんなレベルであるはずがあれへん。

 

 ほんで、次の2回は「資格試験」の参考書に書いたったような古い口語で書いてみた。そやかて、7割くらいの正解率やった。

 

 ほんで、最後の3回はアメリカで使うとったような中学レベルの英語で書いてみた。すると、8割正解に跳ね上がったちゃうか。


  やっぱ、京大のせんせは一流だ(笑)。


 うちの指導させてもうている優秀な生徒も同じ感想を持ってるんやて。
「あのせんせは、自分で京大を受けたら確実に落ちる」
 と、京大医学部に合格した子ぉ言うとった。ほんで、
「この子ぉたちなら、うちの言うこと分かる」
 と、英語の添削を始めた。


 すると、やっぱちゅうか次々と京大合格者が出始めた。それだけちゃう。京大医学部、阪大医学部、名大医学部、東京医科歯科大学、三重大医学部やら、どこにも有効やねん。
 大学のせんせは、やっぱ賢い(笑)。


 やけど、そんなんを言うたら蛇蝎のごとく嫌われた。日本は和を重んじるだけで、議論をさせへんプレッシャーが半端ない。


 みんな食うていかなあかんさかい、英語が話せんでも、生徒が志望校に落ちても、そんなん関係あれへん。わしの生活が優先。そんなんらしい。せやけど、それで犠牲になる生徒たちはどないなるんや。大人の責任を放棄してることになれへんか?


 北勢中学校におる時は英語が一番好かんかった。点数もようなかった。数学は理科、社会、国語と同じで特に意識した科目やなかった。総合点でトップクラスにおったさかい、それで満足やった。


 試行錯誤を繰り返すうちに父は
「大学院に行きたいならお金は出したんねん」
 やら言うた。

 数学に対する執着は残っとった。


 最初に
「ボクは数学が苦手なのやろか?」
 と疑問を持ち始めたのは、四日市高校の2年生の頃。1970年代の四日市高校は男子の割合が大きゅう、男子クラスがありうちは男子クラスに在籍しとった。


 当時、男子は理系に進むんが大多数やった。その中にあって、テストのたんびに数学が壊滅的な点数になっとった。全国の模試やったら、そこそこでも四日市高校の男子クラスではどないしても周囲の子ぉと点数を比較してまう。平均点と比べてまう。


 点数だけでもあれへん。三角関数、対数、微積分と進むにつれて
「もうボクの頭には入りきれへん」
 と友人にぼやいとったのを思い出す。物理で13点を取り、
「こんなんありえへん!」
 とショックを受けて、クシャクシャにしてほかしてもうた。

 

 うちは数学の公式を使う場合に、
「証明でけへんと、使う気になられへん」
 ちゅうタイプやった。今思うと、ほな前に進まれへん。結局、わしが何やってるのか分かれへんくなり気持ちが混乱し始めた。ほんで、1974年の大学受験の5日前を迎えた。

 

 2階の勉強部屋で数学の勉強をしとったら、突然手足が震え始めて椅子からズリ落ちてもうた。ほんで、
「おとん、ボク変や」
 と叫んだ。二階に駆け上がって来た父は、ひっくり返った亀のように手足をバタバタしてるうちを見て
「自分、何してんだ」
 言うた。

 

 ほんで、近くの総合病院に担ぎ込まれた。病院の看護婦さんは、うちの手足を押さえつけながら
「アレ?高木くん、どないしたん?」
 言うた。北勢中学校の体操部の先輩やった。


 診断は、神経衰弱。いわゆるノイローゼとのことやった。うちは頭が狂うこと心配したけど、医者が言うには
「そういう人もおるけど、身体に症状が出る人もおる」
 とのことやった。


 そうした経験を通して
「わしは、まいど文系人間らしい」
 と覚悟した。ほんで、名古屋大学「教育学部」で勉強してる時に
「わしはせんせかなぁ」
 とボンヤリ思うとった。

 

 ほんで、卒業後は英語講師として勤務を始めた。数学に触れるんは、わしにとってタブーになっとった。それから、20年ほどひたすら英語の勉強をしとって数学は求められて中学レベルだけ指導をしとった。民間では、英語講師だけでは仕事が得られへんねん。


 ところが、自分で塾を始めたら
「明日は理科やのに、英語の授業ですか?」
 と生徒から文句が出始めた。ほんで、英語、数学についで、理科、社会、国語の指導もせざるをえのうなった。


 そのうち優秀な子ぉ来ると、高田、東海、灘、ラサールやらの難関高校の数学の過去問にも手ぇ出さざるを得ーへんくなった。ほんで、ある日気がついた。


 そういう優秀な子ぉは
「高校に入っても指導をお願いできまへんか?」
 とリクエストが入り始めた。最初は、英語だけちゅう約束やったのに中学生と同じで数学の質問も入り始めた。


 それで、考えた。
「灘高の入試問題の数学が解ける私やったら高校数学もいけるかいな?」
 と考えた。
「高校クラスも作りたいし、試してみる価値はあるか」
 思て、近所の本屋さんに行って高校数学の参考書・問題集の棚を見た。なつかしい「オリジナル」が目に入った。四日市高校の悪夢が蘇った。


 それで、恐る恐る手にとって中身をのぞいて見た。ひっくり返ってから25年以上が過ぎとった。まだトラウマがあり、手ぇ震えた(笑)。せやけど、驚いたことに、25年前の記憶が残っとりどんどん解けた。


 中学の数学を徹底的に教え込んでるうちに基礎が固まったんか、中年になって精神が鍛えられたんか、よう分かれへん。とにかく、「オリジナル」を2周、「一対一」も2周、「チェック&リピート」も2周、「京大の数学」も2周。並行してZ会の「京大即応」を8年間やり続けた。


 その間に腕試しに「京大模試」を10回、「センター試験」を10回、「京大二次」を7回受けた。


 そのくらいやらな、優秀な生徒の指導には役立てへん。成績開示をしたら、京大数学で7割正解やった。「暁6」の特待生、「国際科」の上位の子ぉ指導しても困れへんくなった。


 せやけど、そういう点数の問題だけちゃう。わしの中でおっきな変化が起きた。数学アレルギーが全く消えた。トラウマが消えた。怖うのうなった。今では
「まぁ、たいていの問題は質問されても困れへんやろう」
 とリラックスして授業に臨める。

 

 当塾は、大規模塾のように準備した授業を一方的に話すスタイルやなしに、生徒の質問に答える形式やさかい常に本番やねん。


 今では、英語より数学の方がはるかにおもろい思える。そやさかい、うちは19歳の時点で「文系」「理系」に分類することに疑問を持ってる。人間はそないに簡単に分類できるものちゃう。


 文系やったうちが今では
「この世の現象は数式で表現されへん限り、分かった言われへん」
 と信じてる。こら、完全に理系の発想やろう。
 

 学校では習えへんかった「数学3」も独学で勉強してる。そうこうしてるうちに30年も過ぎてもうた。ほんま、
「少年老い易う学成り難し」だ。


 ただ、分かったことある。うちはわしの指導させてもうている理系女子のような才能はあれへんのやけど、人の何倍も苦労して数学を身につけたさかいに「生徒はどこでつまづきやすいんか」がよう分かるようになった。こら、数学講師としてはスゴイ武器になるんや。


 ひっくり返って、病院送りになったり、受験会場で不審者扱いを受けて入場拒否をされたり、みっともないこと多かった。お世話になったホテルの人も最初は送迎バスは父兄は乗れな勘違いしてみえた。


 せやけど、それもこれも必要なことやった。
「めっちゃ頭に入れへん」が「わかる!」に変わる瞬間を知った。


 こないして、今は英語と数学の両方が指導できる講師として重宝されてる。
 

 考えてみると、高校生の時にえずきそうな思いで数式を見とった時から30年が経過した。高校生の方はうちもそうであったように2年後、3年後しか見えてへんはず。そら、せや。うちもまさかわしがアメリカで生活したり、数学Ⅲを勉強するハメになるなんて予想ができるはずがなかった。


 父は亡くなる前にわしが大学入試に落ちた話をしとった。戦争で中国に行ったとも言うとった。大学に行って戦争に行くのを避けようとしたんやろうか。今となっては分かれへん。


 うちの進学に強い関心を示しとったのは、わしの原体験があったんかもわかれへん。もっと優しゅう接しとったらよかったけど、もう遅い。


 皆さんも、今の段階では想像も出来へん経験をするはず。うちらがネット社会の到来に驚いたように、時代も激変を繰り返すやろ。そんな高校生の方たちに言えることあるとすると、ありきたりやけど


「目の前のやるべきことに全力を尽くすこと」
 くらいやろう。そら、わし自身にも言えることだが。

 ほんで、ご両親を大切にしたってください。
 

★当塾の医学部合格実績★

京大医学部医学科4名(2022, 2016, 2014, 2013)

阪大医学部医学科4名(2023-3名、2014)

名大医学部医学科2名(2018, 2013)

慶応医学部医学科2名(2019, 2018)

 

高木繁美。「高木教育センター」塾長。

 名古屋大学卒業後、アメリカユタ州で中学校教師をした後、帰国。英検1級、通訳ガイドの国家試験、国連英検A級、ビジネス英検A級などに合格。京大二次試験を7回受けて出題傾向を調査。英語81%、数学70%の正解率。少林寺拳法二段。ジャッキー・チェンの前でヌンチャクを披露したことが自慢。「私の京大合格作戦」(エール出版)2020年度版から2022年度版に漫画化されて掲載。チャットワークを用いた質問無制限の通信添削を全国の難関校受験生対象に募集中。「高木教育センター」検索。桑名市で指導中。I always do my best. 指導を希望される方は、HPをご覧ください。