さらば川崎市体育館~いつかシンと会ったなら | 高木圭介のマニア道

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~浮世のひまつぶし~



 川崎市体育館(神奈川県川崎市)が老朽化を理由に12月27日をもって閉鎖され、年明けにも解体工事が始められ、2017年には「スポーツ・文化総合センター」へと生まれ変わることが発表された。


 昭和31年に開館。その昔は結構、新日本や全日本(オープン選手権決勝戦=昭和50年12月18日)など男子のプロレスにも使用されていた記憶があるが、近年はすっかり女子プロレスの会場というイメージが強かった。12月23日にもこの体育館を本拠地とするワールド女子プロレス・ディアナがラスト興行を行い、井上京子と堀田祐美子がノーロープ電流爆破マッチで対戦。この試合が川崎市体育館のラストプロレスとなった。1993年11月、W☆INGの興行でラバー製のマスクを被りつつ戦っていたブギーマン(エディ・ギルバート)とフレディ・クルーガー(ダグ・ギルバート)兄弟が、さっさと試合を終わらせた上でマスクを脱ぎ捨ててしまい職場放棄。「オレたちは全日本(プロレス)に行く」と謎の言葉を残して、会場から姿を消してしまった事件があったが、それもこの体育館だった。


 だが、何と言ってもこの体育館の58年間にも及ぶ歴史の中で忘れてはならないトピックは、インドの狂虎、タイガー・ジェット・シンの初登場だろう。昭和48年5月4日、旗揚げ間もない新日本プロレスの興行でのこと。山本小鉄とスティーブ・リッカードの試合中、観客席からターバンを巻いた謎の男が試合に乱入。山本小鉄をメッタ打ちにして存在をアピールし、やがてレスラーとして参戦というのが狂虎シンの日本デビューのいきさつだ。ここから新宿伊勢丹襲撃事件だ、腕折り事件だと、長きにわたる日本国内の狂虎伝説がスタートするのである。その前月にはNET(現テレビ朝日)の中継(ワールドプロレスリング)を手土産に坂口征二らが新日本プロレスに入団。猪木&坂口の黄金タッグ復活と、シンの悪役人気で旗揚げから1年で資金難に陥っていた新日本プロレスが見事に息を吹き返したのであった。


 そんな歴史的視点で語ると「いい話」にも思えるが、当時はまさに恐怖しか感じなかった。と言うのも川崎市体育館で新日本プロレスの興行が行われると、幼い私が住んでいた武蔵小杉や新丸子付近にも、NWFヘビー級のチャンピオンベルトを巻いたアントニオ猪木と、サーベルを口にくわえたシンの顔がアップとなった興行ポスターが街中にベタベタと貼られていたもの。幼稚園や小学校への行き帰り、それらを目にした私は「もし街中でシンと出くわしたらどうしよう?」と真面目に脅えていた。同じ川崎市内とはいえ体育館がある国鉄川崎駅や京浜川崎駅(現・京急川崎駅)付近とでは、かなり生活圏が違う。だが、仮に試合を前にしたシンが何かの拍子でサーベル片手に国鉄南武線に乗り込み、武蔵小杉駅で下車して街中をウロウロしていたら…。あるいは突如、幼稚園バスに乗り込んできたら一体どうする?


 当時の幼児にとって、インドの山奥でヤマトタケシに修行させてレインボーマンへと育てたダイバダッタが「良いインド人」の代表ならば、シンこそが「悪いインド人」の代表。やがてチャダという「演歌の上手なインド人」も登場するが、それはまた1年後ぐらいの話。私にとってシンは、宇宙人や怪人にも等しい存在だった。また猪木の腰に巻かれたNWFベルトは、仮面ライダーのショッカー怪人が腰に巻くベルトとデザインが似ていた。

なので猪木はあの黄金のベルトを腰に巻いたまま戦うのだとばかり信じていた。ショッカー怪人は戦いに敗れると、あのベルトのバックル部分が爆発して処刑される。ってことは猪木もシンに敗れた時点で爆破処刑されてしまうのか…と。


 幼児の心配と妄想は果てしなく続く。「シンに会ったら嫌だから今日はプール教室を休む」なんて言い出す私を見かねた母親は「大丈夫よ。(シンに)会うわけないでしょ!」と一喝したもの。だが十数年後、そんな願いは見事に外れ、私はかなりシンと接点を持つことに…。ハタリハタマタ。

 すべては、あの川崎市体育館から始まった。3年後にオープンするという「スポーツ・文化総合センター」の入口付近にでも、ぜひ「インドの狂虎シン、初上陸の地」と記念碑でも建てて欲しいものだ。