{484D3A17-BDFF-4E5F-8F00-18C4A85B8707}

1182年6月22日(寿永2年6月1日)に源平合戦の名将の斎藤実盛が亡くなりました。

斎藤実盛は源義朝の弟の源義賢に仕えていましたが、源義朝の嫡男の源義平に源義賢は討たれてしまいます。

斎藤実盛は、源義朝と源義平父子の麾下になりますが、一方で源義賢に対する旧恩も忘れておらず、源義賢の遺児を預かり、信濃国に送り届けます。

その遺児がのちの木曽義仲でした。

保元の乱と平治の乱では上洛し、源義朝の部将として奮戦します。

源義朝が亡くなった後は、関東に落ち延び、その後、平清盛に仕え重用されます。

1180年に源義朝の子の源頼朝が挙兵しても平清盛につき、平維盛の後見役として源頼朝追討に出陣します。

平維盛の軍は富士川の戦いで源頼朝に大敗します。

平維盛の兵士が水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったためでした。

平清盛が亡くなった後の1183年に平維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣します。

加賀国(石川県)の篠原の戦いで敗北し、味方が総崩れとなるなかでも斎藤実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦しますが、戦死します。

昔の恩人を討ったことを知った木曽義仲は涙ぐんだそうです。

斎藤実盛は、有能な武将でありながらも義理に堅く、仕えた主人には最期まで忠義を尽くす人物でした。