1829年6月14日(文政12年5月13日)に寛政の改革を行なった老中の松平定信が亡くなりました。
御三卿の田安家から奥州白河藩の久松松平家の養子になりました。
久松松平家は、徳川家康の異父弟の子孫の家柄です。
松平定信の前任者である田沼意次の商業を振興する重商主義政策と役人と商家による縁故中心の利権賄賂政治を改めるのが寛政の改革でした。
松平定信は徳川吉宗の孫であり、運が良ければ将軍になっていた可能性もあり、もしかしたら田沼意次に恨みがあったのかもしれません。
飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本へ儒学のなかでも朱子学を学ぶことを勧める学問吟味政策などで一応の成果をあげました。
しかし、松平定信が老中就任当初から大田南畝に『白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき」などと揶揄されました。
政治は細かな事に気づき、自らが清くなければなりませんが、同時に他人の営みを許容する寛容さも必要です。
田沼意次は、自らが汚職しながらも他人の営みを許容しましたが、松平定信は自らを清く見せて他人にも厳しく接しました。
両者の政治はともに偏っていました。
松平定信の米の生産を増やし、飢饉の備えにすることは良いことですが、同時に田沼意次の時のように商業を発達させる必要もありました。
経済で大きな発明の一つは貨幣です。
国の信用があれば貨幣量を調整して物価を安定させることもできます。
しかし、米が基準では豊作や不作で経済が不安定になります。
また、不作に備えて他の作物を作ることも大事です。
石高に代表される米作の農業中心から商業中心の貨幣経済に移行する必要がありました。