1615年6月11日(慶長20年5月20日)に土佐国の国主であった長宗我部盛親が亡くなりました。

長宗我部元親の末っ子として生まれました。

長宗我部元親は、一時は四国のほとんどを支配しましたが、豊臣秀吉に降伏し、土佐国一国の領土になります。

長宗我部元親は一領具足という農民が戦の時に具足をつけて兵士になるという方法で、兵力を増やして四国を支配しました。

長宗我部元親には長宗我部信親という優れた嫡男がいましたが、九州征伐で戦死してしまいます。

そのことで長宗我部元親はふさぎこむようになりました。

また、末子の長宗我部盛親を後継にしたのは、長宗我部信親に似ていたからとも言われています。

長宗我部盛親は、関ヶ原の戦いで石田三成の西軍につき敗れて改易されます。

その後は寺子屋の先生をしていたようです。

そして大坂の陣に参戦し、浪人衆の真田幸村、毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛らの五人とともにリーダーになり、徳川勢に大打撃を与えます。

しかし、力尽き、逃亡していた時に捕縛され処刑されました。

大坂夏の陣で敗れ、徳川方に捕らえられ引き出された時に自害せずに捕らわれたことを徳川秀忠の将兵が蔑むと「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、徳川家康と徳川秀忠をこのような姿にもできたのだ」と言い、「出家するから」とまで言って命乞いをしました。

しかし長宗我部盛親の胸中を知る徳川家康はこれを許さず、死罪に決しました。

石田三成にも同じようなエピソードがあります。

石田三成は、関ヶ原の戦いで敗れた際に捕縛され、喉が渇いたと言い、徳川方の兵士が柿を差し出すと胆に悪いと言います。

徳川方の兵士がこれから死ぬ人間が何をいうのだというと石田三成は、大望を持った者は最期まで諦めないのだと述べました。

命があれば逆襲するチャンスも巡ってくるからです。