1760年6月9日(宝暦10年4月26日)に武蔵国岩槻藩主であり、9代将軍の德川家重の側用人を務めた大岡忠光が亡くなりました。
岩槻藩は今のさいたま市岩槻区にありました。
大岡忠光は、大岡越前とは遠縁の一族になります。
言語不明瞭であった德川家重の言葉を唯一理解できた人物であり、德川家重も大岡忠光を重用しました。
普通ならばそのことで権力を意のままにしようとします。
しかし、大岡忠光はそのようなことはせず、忠勤に励み、権力を握ろうとはしませんでした。
1756年に岩槻藩主となった大岡忠光は、死去するまで4年の在任期間しかありませんでした。
しかし、その4年間にオランダから伝わった木綿種を領内で試植し、砂糖種の蒔付けや栗や梅の植樹を奨励し、産業発展に尽くしました。
また家中や領内で70歳以上の老人がいれば、全てに金を与えます。
さらに大岡忠光は家臣に「民を治める道は重要であり、精一杯取り計らい、百姓が難儀しないように治めよ」と下命したそうです。
大岡氏は岩槻藩主として幕末まで続きます。
武蔵国岩槻藩にも名君がいました。