1651年6月8日(慶安4年4月20日)に江戸幕府3代将軍の德川家光が亡くなりました。  

德川家光の父は德川秀忠で母は織田信長の姪で浅井長政の娘のお江でした。

德川家光と実弟の德川忠長の間に世継ぎ争いがあり、德川秀忠らは德川忠長を寵愛しました。

竹千代廃嫡の危機を感じた乳母の春日局は駿府で院政をしていた德川家康に実情を訴えました。

憂慮した祖父の德川家康が長幼の序を明確にし、德川家光の世継決定が確定したと言われています。

戦国時代は、力の強いものが当主にならなければなりませんが、安定期の江戸時代には秩序を守るルールが必要でした。

それが嫡男が家を継ぐということでした。

德川家光は、若い時には剣術指南役の柳生宗矩を相手に剣術や兵法にのめり込みましたが、柳生宗矩が教えたかったのは剣術から人を活かす方法を学び、人を活かす政治をすることでした。

すでに戦国の世は終わり、世を平和に治める政治力が求められていました。

そして変わらない秩序を守るために家柄が重視されました。

しかし、江戸時代の後の明治時代になると家柄ではなく、実力のある者が力を発揮する立身出世の時代を迎えます。

その明治時代にできたのが学歴主義でした。

家柄ではなく学歴で判断する時代になります。

そして現代は変革期であり、戦国時代のように家柄や学歴ではなく、本当にその人物を見抜くことが求められているのではないでしょうか。