1358年6月7日(延文3年4月30日)に南北朝時代に北朝の征夷大将軍になった足利尊氏が亡くなりました。

後醍醐天皇に内応して鎌倉幕府を倒します。

しかし、その後、後醍醐天皇の独裁体制であった建武の新政が急速に人心を失っていきます。

特に武士の恩賞に対する不満が大きかったようです。

鎌倉方の残党が起こした乱により窮地に陥った弟の足利直義の救援のため東国に向かい、乱を鎮圧したあとも鎌倉に留まり独自の武家政権を樹立する構えを見せます。

これにより後醍醐天皇との関係が悪化し、上洛して一時は天皇を比叡山へ追いやります。

後醍醐天皇側の反攻により一時は九州に都落ちしましたが、再び太宰府を拠点に上洛して京都を制圧し、北朝の光明天皇を擁立して征夷大将軍に任じられて室町幕府を開きました。

後醍醐天皇は捕虜となったものの吉野に脱出し南朝を創始します。

室町幕府を開いてのちに弟の足利直義と二頭政治を布きますが、後に対立します。

足利直義の死により乱は終息しましたが、その後も南朝などの反対勢力と対立します。

後醍醐天皇の崩御後はその菩提を弔うため天竜寺を建立しました。

日本の歴史上で逆賊になったものの天皇の軍に勝ち政権を維持した人物が2人います。

承久の乱の時の北条政子と南北朝時代の足利尊氏です。

足利尊氏は、財を惜しみなく家臣に与えて小さな欲が少なく大欲を持った人物であったようです。

斎藤道三のように国を盗る人物は欲が少ないように見えますが、国を盗るほどの大きな欲があります。

大欲を持てば、小欲に目が眩むこともないようです。