1824年5月30日(文政7年5月3日)に日本陸軍の創設者と言われる大村益次郎が生まれました。
そのため靖国神社の中央に銅像があります。
維新の十傑の一人に数えられていて、江戸幕府の長州征伐と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となりました。
大村益次郎は、長州藩で生まれ、最初は医者でした。
最初は村田蔵六と名乗っています。
そして四賢侯の一人の宇和島藩主の伊達宗城に召し抱えられました。
大村益次郎は四国の宇和島藩で西洋兵学と蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築きます。
1854年から長崎で軍艦製造の研究を行いました。
伊達宗城がオランダ語ができるならば、西洋の知識を得て軍艦も作れるだろうと見込んだからです。
そして本当に洋式軍艦の雛形を造ります。
肖像画のように頭が大変に大きく天才であったように見える風貌です。
切れ者で合理的な判断をしましたが、冗談がまったく通じない人物であったようです。
切れ者の軍師としては最適な人物ですが、人の心の機微はわからないため大将の器ではなく、長州藩では高杉晋作や木戸孝允がその役を担ったようです。
孔子が述べた仁者と知者ならば、理性が優った知恵があり変化を好む知者と言えると思います。
幕末には他にも情よりも理性が優った人物として大久保利通や德川慶喜がいました。
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