1868年5月27日(慶應4年閏4月6日)に幕末の小栗忠順(おぐりただまさ)が亡くなりました。


1860年に日米修好通商条約批准のためにアメリカの艦船のポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国しました。


その後は勘定奉行や陸軍奉行、軍艦奉行などの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使のレオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備や横須賀製鉄所の建設などを行います。


徳川慶喜の官軍への恭順に反対し、薩長と戦うことを主張しましたが受け入られませんでした。


1868年に罷免されて領地である上野国(群馬県高崎市)に隠遁します。


薩長軍の追討令に対して武装解除に応じて、自分の養子をその証人として差し出しましたが逮捕され、翌日、斬首されます。


のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗忠順の評価は見直され、大隈重信東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されています。


司馬遼太郎は小栗忠順を明治の父と述べています。


小栗忠順がアメリカに渡り、注目したのがネジであるということも興味深いです。


正確にネジを一本作ることだけでも大変な技術力が要り、そのネジ一本が当時のアメリカの技術力の高さを表していました。



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