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1584年5月18日(天正12年4月9日)に織田信長の乳兄弟であった池田恒興が小牧長久手の戦いで息子の池田元助とともに戦死しました。

織田信長の小姓となり、桶狭間の戦いや美濃攻略などで戦い、浅井長政や朝倉勢との姉川の戦いで活躍し、犬山城主となります。

以後も比叡山焼き討ち、長島一向一揆、槙島城の戦いなどに参陣します。

1574年には武田勝頼に奪われた美濃国(岐阜県)の明智城の押さえとして、美濃国(岐阜県)の小里城に入ります。

池田恒興は織田信長の嫡男の織田信忠に付けられていましたが、1580年に、織田信長に抵抗し花隈城の戦いで摂津国(大阪府)の花隈城に籠もる荒木村重を破り、その旧領を領しました。

1582年の織田信長、徳川家康連合軍による武田勝頼への甲州征伐では息子を出陣させ、池田恒興は摂津国の留守を守るよう織田信長から命令されます。

その年の本能寺の変で織田信長が家臣の明智光秀に討たれると、毛利勢への中国攻めから引き返した羽柴秀吉に合流し、山崎の戦いでは兵5,000を率いて右翼先鋒を務めて明智光秀を破り、織田家の宿老に列するようになります。

織田家の後継を巡る尾張国の清洲城で行われた清洲会議では、柴田勝家らに対抗して、羽柴秀吉丹羽長秀と共に織田信長嫡孫の三法師(のちの織田秀信)を擁立します。

池田恒興は織田信長の乳兄弟ということで重臣たちとともに清洲会議のメンバーに選ばれたようです。

また、羽柴秀吉が柴田勝家に対抗して味方を増やすために選んだと思われます。

織田家の領地の再分配では摂津国の大坂、尼崎、兵庫などで合わせて12万石を領有するようになります。

1583年の羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いには参戦していませんがその後に美濃国で13万石を拝領し大垣城に入り、岐阜城には嫡男の池田元助が入りました。

1584年の徳川家康・織田信雄との小牧長久手の戦いでは、織田信長の次男の織田信雄が豊臣秀吉に対抗したため、去就が注目されましたが結局は豊臣秀吉として参戦しました。

犬山城を攻略した後、途中で上条城に立ち寄り、三好信吉、森長可、堀秀政と共に徳川家康の本拠の三河国を攻めようとしましたが、徳川家康らにそれを読まれていて奇襲されます。

そして森長可や嫡男の池田元助らと共に戦死します。

徳川家康は豊臣秀吉が対峙したまま動けないことに痺れを切らして三河国を奇襲しようとすることを予期して先回りしていました。

池田恒興は、泰平の世が来る前に合戦に明け暮れて最期は戦死しました。

池田恒興の死後は池田輝政が継いで、曽孫の池田光政は江戸時代でも名君とされています。