1646年5月11日(正保3年3月26日)に剣術家の柳生宗矩が亡くなりました。


柳生宗矩は、兵法の理想として活人剣を提唱しました。


戦国時代から安土桃山時代を経て江戸時代になり、世の中は平和となって、人を殺すための剣術は実用性がなくなりつつありました。


柳生宗矩は、活人剣を本来忌むべき存在である武力も、一人の悪人を殺すために用いることで、万人を救い、活かすための手段となるという考えました。


戦乱の時代が終わりを迎えた際、太平の世における剣術の存在意義を新たに定義したものでした。


また、沢庵の教示による剣禅一致の概念を取り込み、修身の手段としての剣術も提唱したことで、それまで戦場での一技法に過ぎなかった武術としての剣術を、人間としての高みを目指す武道に昇華させる端緒になりましました。


剣術による修行という考えは大きく広まり、剣術のみならず、柔術や槍術など、江戸時代の武道各派に影響を与え、その理念は現代の剣道にも受け継がれました。 


柳生宗矩は将軍の德川家光の剣術指南役でもありました。


将軍の剣術指南役となれば、ただ剣術の技を教えるだけでは務まりません。


将軍の政に良い教えを与えることが大事です。


柳生宗矩が力を注いだのは三代将軍の徳川家光に剣術で活人剣を教え、政治で人を活かす方法を教えることでした。


殺人剣は人を殺してしまいますが、活人剣は人を活かします。


太平の世は、織田信長のような武力による威圧では作ることができません。


そして、人を活かせば良い政治が行えます。


人を活かすためには人を信用することが大事です。


柳生宗矩は徳川家光を偉大な将軍にし、太平の世を築いた人物の一人でした。


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