1638年2月14日(寛永15年1月1日)に島原の乱の江戸幕府の総大将であった板倉重昌が戦死しました。

1588年に徳川家康の家臣の板倉勝重の次男として駿河国駿府で誕生しました。

京都所司代の板倉勝重が、板倉重昌と兄の板倉重宗とに対し、ある訴訟の是非について答えるように問いを出したことがあるそうです。

板倉重昌はその場で返答しましたが板倉重宗は一日の猶予を求めたうえ、翌日に弟の板倉重昌と同じ結論を答えました。

徳川家康や周りのものたちは板倉重昌の方が器量が上だと評価しました。

しかし、父の板倉勝重は、板倉重宗は板倉重昌同様に結論を早く出していましたが、ただ慎重を期すためにあの様な振る舞いをしただけであり、重宗のほうが器量が上であると評しました。

そして、のちに板倉勝重は京都所司代職を兄の板倉重宗に譲りました。

1605年に板倉重昌は、主君の徳川家康の参内に伺候し従五位下内膳正に叙任されます。

松平正綱や秋元泰朝とともに徳川家康の近習になります。

1614年の大坂冬の陣では、豊臣方との交渉の任にあたりました。

豊臣方が誓書の宛名を徳川家康にするべきか将軍の德川秀忠にすべきかを問うと板倉重昌は、徳川家康にするべきと答えています。

そして徳川家光の治世にキリシタンや重税に苦しむ農民により島原の乱が起きます。

1637年に板倉重昌は、島原の乱鎮圧の上使となります。

嫡子の板倉重矩を伴い、副使の石谷貞清とともに出陣します。

動員された西国の諸侯を率いる命を受け下向しますが、九州の諸侯は小禄の板倉重昌の指揮に従わいませんでした。

小身の板倉重昌では統制が取れないことや一揆勢の勢いが強いこと、長期化した際に幕府の権威が揺らぐことや海外からの勢力の参加の恐れなどを考えた幕府は知恵伊豆といわれた老中の松平信綱を改めて大将とし、大幅な増援も決定しました。

板倉重昌は功を奪われることに焦慮を覚えたとされています。

1638年に総攻撃を命じますが、やはり諸軍の連携を失い4000人とも伝わる大損害を出します。

板倉重昌自身は板倉勢を率いて突撃を敢行し、眉間に一揆勢が放った銃弾の直撃を受け、戦死しました。

 享年51でした。

辞世の句は、「あら玉のとしの始に散花の 名のみ残らば先がけとしれ」とされています。

板倉重昌は小禄であったから西国の諸大名が従わなかったのではなく、大将の器でなかったから従わなかったと思えます。

人に功を譲れないのは全体を見る目に欠けていて大将の器ではありません。