1752年2月3日(宝暦元年12月19日)に8代将軍の德川吉宗のもとで江戸町奉行や寺社奉行などを務めた大岡忠相が亡くなりました。

江戸町奉行は、北町奉行と南町奉行があり、現在に北町奉行で有名なのが遠山の金さんと言われる遠山景元で、南町奉行で有名なのが大岡越前です。

江戸町奉行の役割とは裁判をするだけでなく、行政や警察の役割も果たす激務で、北町奉行と中町奉行と南町奉行が交代で役割を果たしました。

今で言うならば、東京都知事、警視総監、裁判官を兼ねた役割でした。

大岡忠相は、当初、山田奉行として伊勢を支配しました。

山田奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生していました。

山田(現在の伊勢市)と松坂との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたと言われています。

紀州藩が親藩だからと言って忖度しませんでした。

その公正な裁きをされた紀州藩主であった德川吉宗に見込まれて、その将軍就任後に江戸町奉行に抜擢されました。

8代将軍 德川吉宗が進めた享保の改革を南町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛や寺社奉行を務めました。

越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージから現代では大岡越前として知られていています。

市政においては、町代の廃止や町名主の減員など町政改革も行なう一方、木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編のため、1718年には町火消組合を創設して防火負担の軽減を図りました。

1720年にはさらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」の小組に再編成しました。

また、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行います。

これらの政策は一部町名主の反発を招いたものの、江戸の防火体制は強化されました。

風俗取締では私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化します。

下層民対策では、1722年に直接訴願のため設置された目安箱に町医師の小川笙船から貧病人のための養生院設置の要望が寄せられると、吉宗から検討を命じられ、小石川薬園内に小石川療養所を設置しました。

また、青木昆陽を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたさつまいもの栽培を助成します。

将軍德川吉宗が主導した米価対策では米会所の設置や公定価格の徹底指導を行い、物価対策では株仲間の公認など組合政策を指導し、貨幣政策では流通量の拡大を進言しています。

武蔵国岩槻藩(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)の藩主であった大岡氏とは遠縁の同族になります。

その岩槻藩主であった大岡忠光は、言語不明瞭であった9代将軍の徳川家重の述べたいことを唯一理解できる者として重用されましたが、権力を握ろうとはしませんでした。