1853年1月29日(嘉永5年12月20日)に予防医学の父といわれる北里柴三郎が熊本県で生まれました。

父の北里惟保は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な人格者でした。

母の北里貞は豊後森藩士の加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁して後は庄屋を切りもりしました。

北里柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼したそうです。

北里柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ漢学者の伯父から四書五経(論語、大学、中庸、孟子と易経、書経、詩経、礼記、春秋などの儒教の基礎)を教わりました。

帰宅後母の実家に預けられ、儒学者園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごしました。

その後久留島藩で武道を習いたいと申し出ましたが他藩であるので許可されまなかったそうです。

そして実家に帰り父に熊本に遊学を願い出ました。

1869年細川藩の藩校である時習館に入寮しましたが、翌年に時習館は廃止されました。

そして熊本医学校に入学しました。

その教師マンスフェルトに出会った事をきっかけとして本格的に医学に目覚めることとなります。

特別に語学を教わり、3年間在籍しましたが、2年目からは通訳を務めてたそうです。

1875年に現在の東京大学医学部へ進学しましたが、在学中よく教授の論文に口を出していたため大学側と仲が悪く、何度も留年しました。

1883年に医学士になり、在学中に医者の使命は病気を予防することにあると確信し、予防医学を生涯の仕事とする決意をします。

商人ならば、士魂商才というのでしょうが、北里柴三郎は、武士の魂を持った医師になります。

1885年よりドイツのベルリン大学へ留学します。

当時は医学といえばドイツでした。

コッホに師事し業績をあげます。

1889年には世界で初めて破傷風菌だけを取りだす破傷風菌純粋培養法に成功します。

1890年には破傷風菌抗毒素を発見し世界の医学界を驚嘆させました。

さらに血清療法という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発しました。

1890年には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。

第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に北里柴三郎の名前が挙がりますが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた北里柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞しました。

北里柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル賞委員会や選考にあたったカロリンスカ研究所が北里柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したと見なしたこと、ノーベル賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因としてあげられていています。

論文がきっかけで欧米各国の研究所、大学から多くの招きを受けますが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるためとして北里柴三郎はこれらを固辞して1892年に日本に帰国しました。

帰国後は、現在の東京大学医科学研究所や北里研究所、北里大学、慶應義塾大学医学部の礎を作りました。

北里柴三郎は、医学界の権力闘争には興味はなく、親しい人でも研究で医学的に違うと確信すれば、遠慮せずに批判しました。

それは予防医学を志した初心を忘れなかったためでもあります。

どの組織もほっとけば上には良い情報しか上がらなくなります。

職場で上司の前で不具合を話せない空気を作ることはよくありません。

悪い情報が入った時には一大事になっており、寝耳に水であるのが一番良くない組織運営です。

組織のリーダーは部下が悪い情報を言えるように聞く耳を持たなければなりません。