1775年に大岡忠喜の嫡男大岡忠要の侍読相手を務めます。
1778年に房州の郡奉行に就任し、岩槻藩の飛地である安房国朝夷郡南朝夷村沖合いで漂流した清国の商船元順号を助けて、児玉南柯はその事を『漂客紀事』に書きました。
また岩槻藩が財政難の時、大岡忠要により勝手向取締り(かってむきとりしまり)に任じられ、五か年間の倹約を実施しました。
1786年に前任者の公金横領事件が発覚し、その責任を負われたため職を辞して隠居しました。
隠居後は藩主の侍読相手を務め、1799年(寛政11年)3月に、私塾の遷喬館を創設し、岩槻藩の子弟教育に努めました。
遷喬館はのちに岩槻藩の藩校になります。
1811年に岩槻藩第5代藩主大岡忠正により「勤学所」と改名して藩校となり、武芸稽古場が隣に建てられ、文武両道に長ける人格形成を目指す、児玉南柯の意志が実現されました。
後世に「岩槻に過ぎたるものが2つある 児玉南珂と時の鐘」と評されました。
埼玉県ですと川越の時の鐘が有名ですが、岩槻にも時の鐘があります。
児玉南柯と時の鐘のことは、旧岩槻市の小学校に通う学童は郷土の授業で必ず学びました。
そして児玉南柯は1830年に亡くなりました。
享年84歳です。
戒名は「南柯斎槐誉一夢居士」です。
埼玉県さいたま市岩槻区の遷喬館の建物は今でも遺り、さいたま市岩槻図書館の道路の向かい側にあります。
簡素で特別な造りはない建物ですが、岩槻藩の子弟の多くが学んだところであるということに歴史的価値があります。