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1573年1月25日(元亀3年12月22日)に夏目漱石の先祖の夏目吉信が三方ヶ原の戦いで戦死しました。

夏目吉信の五男の夏目吉次が夏目漱石の先祖になります。

夏目吉信は三河国(愛知県)に出生しました。

夏目氏は古くから松平氏(徳川氏)に仕える譜代衆でした。

1561年の三河長沢城攻めで軍功を上げ、1562年に八幡村城の板倉重定を攻めた三河八幡合戦の際には、今川軍の攻撃で德川家康方が総崩れになったときに、しんがりを務めて、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したそうです。

後に德川家康から軍労を賞され備前長光作の脇差を賜りました。

ところが、1563年に三河一向一揆が起こると一揆側に加担し、大津半右衛門・乙部八兵衛・久留正勝ら門徒と共に德川家康にそむいて敵対しました。

三河一向一揆の時には後の德川家康の謀臣になる本多正信も一向一揆側についています。

当時の寺院の影響力は強く、德川家康は手を焼いたようです。

夏目吉信がこもった砦が乙部八兵衛の内通によって陥落すると、攻め手の松平伊忠に捕らわれましたが、乙部の助命嘆願によって許され、松平伊忠の附属となりました。

松平伊忠は、深溝松平家の当主であり、深溝松平家は、德川家康の先祖の松平家の分家です。

夏目吉信は、後に忠義の士であるとして、松平伊忠が德川家康に嘆願して正式に帰参を許されます。

そして三河国(愛知県)、遠江国(静岡県)の郡代になります。

元亀3年(1573年)の德川家康と上洛を目指す武田信玄の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城の留守居でしたが、櫓に登って戦場を遠望して味方が敗色濃厚なのを知って德川家康の救援に向かいます。

德川家康に退却を進言しますが、止めるのも聞かず德川家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のむねで打って奔らせました。

德川家康を逃がすために、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦し、身代わりとなって戦死しました。

享年55歳でした。

夏目吉信の五男の夏目吉次は、口論となった同僚を斬り殺し出奔し、変名して徳川氏に仕えていました。

関ヶ原の戦いの直後に德川家康にそのことが露見しますが、夏目吉信の忠節を考慮し許されます。

また、大坂夏の陣の後に德川家康に呼ばれ「今こうしていれるのもお前の父のおかげだ、感謝している」と礼を言われ将軍の德川秀忠の家臣になりました。

夏目漱石には立派なご先祖様がいたようです。