1780年1月24日(安永8年12月18日)に江戸時代の発明家の平賀源内が亡くなりました。

土用の丑の日の発案者でもあります。

本当は鰻の旬は冬であり、江戸時代に鰻屋さんは夏に商売が減っていました。

そのために平賀源内が作ったキャンペーンが土用の丑の日で、夏のその日に鰻を食べて元気をつけるというものでした。

平賀源内は、幼少の頃に掛け軸に細工をしてお神酒天神を作成したとされます。

掛け軸のお神酒天神が次第に酔ったように赤くなる仕掛けでした。

その評判が元で13歳から藩医の元で当時の薬の博物学であった本草学を学び、儒学も学びます。

また、俳諧グループに属して俳諧なども行います。

1748年に父の死により後役として高松藩の蔵番になります。

1752年に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、西洋医学、油絵などを学びます。

留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄します。

大坂、京都で学び、さらに1756年には江戸に出て本草学者の田村藍水に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿します。

2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学びます。

1761年には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行います。

物産博覧会をたびたび開催し、この頃には江戸幕府老中の田沼意次にも知られるようになります。

1759年には高松藩の家臣として再登用されますが、1761年に江戸に戻るため再び辞職します。

このとき仕官お構いとなり、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となります。

1762年には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催します。

江戸では知名度も上がり、蘭医学者の杉田玄白や中川淳庵らと交友します。

1763年には物類品隲(ぶつるいひんしつ)を刊行します。

オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念しますが、平賀源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に通訳させて読解に務めます。

文芸活動も行い、談義本の類を執筆します。

産業起業的な活動も行ったそうです。

1766年から川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見しました。

石綿は、現在ではアスベストといわれ、肺気腫になる危険がありますが、火をつけても燃えない特徴があります。

秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行います。

現在でも奥秩父の中津峡付近には、平賀源内が設計し長く逗留した建物が源内居として残っています。

1773年には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝えています。

1776年には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元します。

1779年夏には橋本町の邸へ移ります。

大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死しました。

享年52歳でした。

才気あふれる人物です。