1929年に昭和天皇と貞明皇后の希望で、予備役となり侍従長に就任しました。
鈴木貫太郎自身は宮中の仕事には適していないと考えていました。
鈴木貫太郎が侍従長という大役を引き受けたのは、それまで在職していた海軍の最高位である軍令部長よりも侍従長が格下でしたが、格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくなかったからといわれています。
宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、大侍従長と呼ばれたそうです。
昭和天皇の信任が厚かった一方で、青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ君側の奸と見なされ、二・二六事件で命を狙われることになります。
1936年2月26日午前5時頃に安藤輝三陸軍大尉の指揮する一隊が官邸を襲撃しました。
はじめ安藤の姿はなく、下士官が兵士たちに発砲を命じます。
鈴木貫太郎は三発を左脚付根、左胸、左頭部に被弾し倒れ伏しました。
血の海になった八畳間に現れた安藤に対し、下士官の一人が「中隊長殿、とどめを」と促しました。
安藤が軍刀を抜くと、部屋の隅で兵士に押さえ込まれていた妻のたかがとっさの判断で「おまちください!」と大声で叫び、「老人ですからとどめは止めてください。どうしても必要というならわたくしが致します」と気丈に言いました。
安藤はうなずいて軍刀を収めると、「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。気をつけ、捧げ銃」と号令しました。
そしてたかの前に進み、「まことにお気の毒なことをいたしました。われわれは閣下に対しては何の恨みもありませんが、国家改造のためにやむを得ずこうした行動をとったのであります」と静かに語り、女中にも自分は後に自決をする意を述べた後、兵士を引き連れて官邸を引き上げました。
反乱部隊が去った後、鈴木貫太郎は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。たかは止血の処置をとってから宮内大臣の湯浅倉平に電話をかけ、宮内大臣の湯浅倉平は医師の手配をしてから駆けつけました。
鈴木貫太郎の意識はまだはっきりしており、宮内大臣の湯浅倉平に「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上に申し上げてください」と言ったそうです。
鈴木貫太郎は大量に出血しており、駆けつけた医師がその血で転んだという話もあります。
近所に住んでいた日本医科大学学長の塩田広重とたかが血まみれの鈴木貫太郎を円タクに押し込み日医大飯田町病院に運んだが、出血多量で意識を喪失、心臓も停止しました。
直ちに甦生術が施され、枕元ではたかが必死の思いで呼びかけたところ、奇跡的に息を吹き返しました。
頭と心臓、及び肩と股に拳銃弾を浴び瀕死の重症でしたが、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出たことが幸いしていました。
安藤輝三は以前に一般人と共に鈴木貫太郎を訪ね時局について話を聞いており面識がありました。
安藤輝三は鈴木貫太郎について「噂を聞いているのと実際に会ってみるのでは全く違った。あの人は西郷隆盛のような人だ。懐の深い大人物だ」と言い、後に座右の銘にするからと書を鈴木貫太郎に希望し、鈴木貫太郎もそれに応えて書を安藤に送っていいます。
安藤輝三が処刑された後に、鈴木貫太郎は記者に「首魁のような立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろうが、思想という点では実に純真な惜しい若者を死なせてしまったと思う」と述べました。
そして1945年4月7日に昭和天皇の望みで内閣総理大臣になり、組閣します。
昭和天皇が終戦を望んでいることを鈴木貫太郎は察していました。
忖度ですが、国民を考えた意義のある忖度です。
しかし、無理やり終戦を進めると軍部がクーデターを起こす可能性もありました。
鈴木貫太郎の頭の中には二・二六事件の出来事があったと思います。
そして昭和天皇にお尋ねするという形で、昭和天皇が終戦を望んでいるという言葉を引き出し、1945年8月15日に日本は敗戦を選びました。
76年前のことです。