1714年12月8日(正徳4年11月2日)に徳川綱吉の側用人の柳沢吉保が亡くなりました。

徳川綱吉の側近であるだけでなく藩主として領内で優れた政治を行いました。

川越藩主の時には三富新田の開拓をしています。

川越藩に仕えていた荻生徂徠の提案から川越藩士の曽根権太夫に命じて藩内の三富新田の地を開拓させました。

幅6間の道の両側に農家が並び、その1軒の農家ごとに畑、雑木林が面積が均等になるように短冊型に並んでいるという区割にしました。

北宋の王安石の新田開発法を参考にしたといわれています。

均等な区割は牛を使っても農作業がしやすく、近代的です。

整然とした姿は今でも残り、1962年には、埼玉県指定文化財に指定されています。

柳沢吉保は徳川綱吉の側近でしたが、その死後も領地や家は安堵されてその子孫は大名として明治維新まで続いています。

政権が変わった後に冷遇されることもありませんでした。

後世には德川綱吉の側近という悪いイメージもありましたが、実像は違います。

世渡りが上手かったですが、教養があり、賢い名君でした。