1563年9月18日(永禄6年9月1日)毛利隆元が亡くなりました。

毛利元就の嫡子で、家督も継いでいます。

死因はアルコール中毒とも言われています。

財政政策や政治に手腕を発揮して、商人から信頼されていて中国の覇者の毛利家を運営するための資金を調達していました。

毛利隆元が亡くなると毛利家は資金調達に苦労するようになります。

幼い時には毛利隆元、吉川元春、小早川隆景ら兄弟の仲は悪かったようです。

しかし、父の毛利元就は力を合わせることの重要さを説き続けました。

弟の吉川元春は武勇に優れ、小早川隆景は知略に優れて互いに能力を補完しあえる関係を毛利元就は作りました。

いくら能力が優れている人が集まっても、リーダーに人徳がなければ、人は団結せず、組織は滅びていきます。

毛利隆元が亡くなるとその嫡子の毛利輝元は小早川隆景に厳しく養育されて帝王学を学んでいきます。

毛利輝元にまだ子がなかった時に豊臣秀吉は甥の秀秋を養子にさせようとしますが、小早川隆景が先回りして小早川家の養子にします。

それが、関ヶ原の戦いの裏切りで有名な小早川秀秋です。

また、吉川元春の息子の吉川広家は関ヶ原の戦いで毛利軍の前に立ちはだかり戦闘をさせませんでした。

そして、その後に徳川家康に自分の褒美の代わりに毛利家を残してくれるように交渉して、石高は減りながらも毛利輝元は改易を免れます。

子の代になっても毛利家は力を合わせ続けて家名を保ちました。