哲学者のエンゲルスは社会主義を提唱したマルクスの良き援助者として知られています。

しかし、社会主義の失敗は自明のことです。

社会主義の皆が平等ということが強調されがちですが、誰が生産量を決めたり何を生産するのかというのが課題です。

昔のソ連や中国は国家が強権的に何を生産し、どのくらい生産するかを決めていました。

国家というと抽象的ですが、中央政府の官僚が決めていたということです。

市場経済とは生産者と消費者が自分の利益を求めるうちになぜか社会的に良い結果になっているという面があります。

それには条件があり、人を騙したり社会的に良くないことで生産者が利益を得るのではないという倫理を醸造するための法が守られているということです。

その哲学者エンゲルスは『存在は本源的に意識を規定する。』と述べました。

それを、唯物論といいます。

存在とは他者や社会のことです。

意識とは自分の考えのことであり、それを規定するということは、それを左右し決めるということです。

例えば、自分の心の中にケチという心があるから他人がケチに見えるのではなく、他人にケチである要素があるからケチに見えるのだという考えです。

社会や他人の存在が自分の考え方を左右するという考えです。

哲学者デカルトから始まった哲学では自分がどうであるかを思う自分がいて、その結果、他人がそのように見えるのだというものでした。

例えるならば自分の心の中にケチという心があり、自分でそれがわかって、その結果自分のケチという心を通して他人がケチに見えるのだという考えです。

哲学者デカルトの考えに従うならば、他人がケチかというのは不確かであるし、自分の心の中のケチというものがあるのはわかるが、それも不確かであり、自分をケチと思う自分だけはあるということは確かだということなります。

それがいわゆる哲学者デカルトのCogito ergo sum(我思う、ゆえに我あり)という考え方です。

しかし、哲学者デカルトも哲学者エンゲルスも片寄った考え方です。

実際は自分の心の中にケチという心があって、他人の行動にもケチの要素があり、ケチという認識が生まれるのだと思います。

両手をたたき、鳴ったのは左手か右手かという禅問答のようなものです。