941年7月21日(天慶4年6月20日)に藤原純友が亡くなりました。
平将門と同時期に反乱を起こし、承平天慶の乱と言われています。
平将門は桓武平氏で、もとをたどれば桓武天皇の血統ですし、藤原純友はもとをたどれば摂政関白の家柄の藤原氏の出身です。
しかし、ともにその血筋の末枝で出世を絶たれていました。
あまりにも天皇の子孫と藤原氏が繁栄しすぎてその人数が多くなっていたため、その末枝の地位は下がっていました。
藤原純友や平将門の反乱は貴族政治への不満でもありました。
庶民にも貴族政治に閉塞感があったかもしれません。
藤原純友や平将門には活き活きとした躍動感と生きることへの執念を感じます。
しかし、平将門は関東で従兄弟の平貞盛に討たれ、藤原純友は瀬戸内海で源経基に討たれました。
平貞盛の子孫が平清盛で、源経基の子孫が源頼朝です。
しかし、のちのその基盤は逆で平清盛が瀬戸内海を基盤にし、源頼朝は関東を基盤にしました。