ベッキー「あっ魔法使いだ!」

 ラムダス「魔法つかいではありません。召使いです」

 

 これはフランシス・ホジソン・バーネットによって書かれた「小公女(原題The little princess)での一場面。第6章で再びセーラが大資産家に返り咲いた直後に、セーラの友人でもあった下働きのベッキーが救われる場面で、私が最も好きな場面でもあります。

 

 「小公女」は1888年にバーネット夫人によって創作された小説。100年以上も前の話なのに、ここまで「行き届いた」話って「すごい」って思いませんか?「ダウントンアビー」で知られているように「使用人」といってもピンからキリまであって、ベッキーは最下層の使用人ですから、「お嬢様付きのメイド」は破格の出世。フィクションであっても、ベッキーの出世を祝いたくなります。

 

 原作によると主人公セーラ(Sara)があこがれていたお姫様とは「マリー・アントワネット」のことだとか。特に革命派に逮捕され、獄中にいても気品さを失わなかったアントワネットをセーラは自身に重ねたのでしょう。セーラは半分フランス人ですからね。ただ「アントワネットは浪費家」というイメージがあるために、日本では表に出さないようにしたのでしょうね。

 

 今年、やはりバーネット夫人の「秘密の花園」が映画でリメイクされて公開されます。1993年に引き続きコリン・ファースが出演することで話題ですが、今回のディコン役は中東系の俳優が演じるとか。米ディズニー映画の異常なまでの黒人登用の影響がイギリス映画界にまで押し寄せてきたのかな。ディコンって結構重要な役なんだけど、視聴者の違和感よりも「ポリティカル・コレクトネス」優先みたい。「残念」と思うことも差別ですか?

 

 「貴族や金持ちは悪」という単眼視点で過去の文芸作品を見てもつまらない。大切なのは外見ではなく人間自身のドラマだから。当時としてはあり得ない場面での有色人種の登用も違和感しか生まない。「どうせフィクションなんだから」と政治的なポリティカル・コレクトネスを悪用して、見る人を洗脳しないでほしい。エンターテイメントを思想洗脳に使うのは自由のないない共産党国家だけで十分だと思う。