今年はお芝居を観に行く回数が多い。
今回は大田区の梅屋敷にあるテアトロ・ド・ソーニョという小屋での公演。
劇団ひつじのしっぽ公演。
迷うといけないので早めに小屋へと向かい開場を待っていると、見覚えある男性がやってくる…。
米粒写経の居島一平さんでした(笑)
居島さんも観に来たんだねー。
時間になり会場入りしてビックリ。
いわゆる《三方壁》の在り来たりな舞台を想像していたので、目にした舞台が奇抜過ぎて度肝抜かれました。
作品名
寺山修司という劇的なるものを超えて迷宮 毛皮のマリーの居る風景からの。
芝居の方はというと、これまた変わっていた。
“せ~の!”で芝居が始まる訳ではなく、開演時間前からフ~っと、亡霊みたいに、正に亡霊みたいに役者さんたちが現れ、そしていつの間にか作品本編が始まっているという。
作品の内容はとにかく難しい芝居だった。
題材が難しいのか、作品の構成が難しいのか、頑張って作品の本筋を見出そうと思って観ていたんだけど、なかなか見えてこない。
台詞も難しくて。
聞き慣れない言葉の言い回しが多いからなのか、舞台の形状の影響で台詞を向ける的を絞れないからなのか、声を荒立てたユニゾンが多かったからなのか、或いは似て異なる台詞を被せて喋るシーンが多いからなのか、特に前半は台詞の内容が聞き取れないシーンも多く残念だった。
また、一つの役を1人ではなく、2人或いは3人で演じる為、人物の相関図を掴むまでが大変だった。
後になって思えば、それは全て『そういうお芝居』なのかなって気もするけどね。
まるでチンプンカンプンでわからない芝居なのかと言えばそうでもなく、徐々に人間という生き物の綺麗な部分と汚い部分が見え隠れし始める。
ほとんどの役が鏡映しの様に複数人で演じられたのは、実はこの綺麗な部分と汚い部分を具体化させる為なのかなーと勝手に思ってみたり。
人間の“感情”が一つのテーマになってたのかな、と、見終わって数時間してからやっと思えてきた。
あからさまに感情を表現するに当たり、それこそ演出家さんにも『悲しい。ハイやってみて!』としか言われてないんじゃないかな~と思う様な、十人十色な感性で演じられたパントマイムも何度かあったし。
やっと、やっと芝居の本筋が見えてきた頃には作品の8割が終わっていたという難しい芝居だったけど、クライマックスにはこんな訴えが。
どんなに自分を縛り、邪魔に感じるものでも、いざ失ってしまえば残るのは悲しみである。
そんな様な事を訴えていたかの様なシーンは、役者さんの『悲』の演技にもらい泣きしそうでした(笑)
そして芝居の終わりも、終わりですよというメッセージも無ければカーテンコールもない。
いつ始まったのかすらわからない始まり方をした芝居は、いつ終わったのかわからない終わり方をしたのでした。
始まりから終わりまで、全てに於いて他の芝居とは一線を画する、そんなお芝居。
…。
(  ̄ω ̄)
(  ̄ω ̄)
女版ラブセクシー・ローズかよって位、ほとんど全裸に近い衣装で出ていた女優さんの、女優としての根性の座りっ振りはすごかったなぁと小一時間…。
それはともかく、初めて観るスタイルのお芝居は、一つの良い経験になりました。
芝居に出ていたお知り合いの役者さん曰わく、こういった芝居が主流だった時代もあるんだとか。
へ~。
(  ̄ω ̄)
(  ̄ω ̄)