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『日本の少子化をくい止めるにはーその2ー(前半)』三橋貴明 AJER2019.10.22

 

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一般参加可能な講演会のお知らせ。
年末特別講演会「京都大学大学院教授、元安倍内閣・内閣官房参与 藤井聡様」
2019年12月4日(水) 18:45~ 東京都新宿区
【MMT (現代貨幣理論)を学び、日本経済を展望する】

 

三橋TV第166回【メディアは絶対に語らない「民主制」の真実】
 
 以前、経世史論の特別コンテンツで、中野剛志先生が、
「歴史とは、国民のメモリー(記憶)だ」
 と、語られ、なるほどなと思ったのですが、我々個人にしても、実のところ「記憶」が自我を成り立たせています。

 記憶を失う。つまりは記憶喪失になった場合、わたくしたちは「自分が誰?」「自分は何?」すら分からず、地獄のような日々を送る羽目になることでしょう。

 歴史とは、国民のメモリー。歴史を奪われた時、我々は記憶喪失になった個人同様に、自分たちが何なのか分からず、国民国家は崩壊することになります。「自分が日本国民である」とは、日本国の歴史を知って、初めて成立する話なのです。
 
 この歴史が、大東亜戦争敗北後のGHQによる検閲、公職追放、皇国史観の破棄により、歪みに歪められてしまいました。自虐史観がなぜ始まり、続いているのか。詳細は経世史論の特別コンテンツ、上島嘉郎先生との対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか?」をご視聴下さい。
 
 もちろん、皇国史観は褒められた歴史観ではありませんでしたが、とりあえず自虐史観の歴史学者、考古学者たちに言いたいのは、日本書紀、古事記を全否定し、神武天皇から開化天皇までは、
「架空の天皇。実在を信じる説はない」
 などと断言する癖に、都合がいいときには記紀から引用する「つまみ食い」はすんな! でございます。

 江上波夫にしても、直木考次郎にしても、笠原英彦にしても、山本博文にしても、井沢元彦にしても、安本美典にしても、記紀全否定、初期の天皇の実在否定、東征否定のくせに、騎馬民族征服王朝だの、邪馬台国東遷説だのといった自説(妄想)を補強する際には、記紀の一部を抜き出すわけです。最低の連中ですが、そうではない学者を見つけるのが困難、というのが日本の現実です。

 財政破綻論者の場合、
「日本は財政破綻する」
 という変わらない結論に導くため、様々なレトリックを考案します。とはいえ、彼らは基本的に「貨幣」「会計」「経済」について無知で、レトリックが稚拙なので、一応、言論で潰せます(チャネルは、あちらの方がぶっといですが)。
 
 それに対し、記紀全否定の自虐史家たちは、
「第一代神武天皇から第十四代仲哀天皇までは実在の確認できない天皇である」(笠原英彦:「歴代天皇総覧」)
 と、一切の根拠を示さず、ただ「断定」してくるので厄介です。

 そんなこと言ったら、イエスもカエサルも、ナポレオンも劉邦も「実在の確認できない人物」になってしまいます。明治天皇ですら、「実在の確認」はできません。何しろ、わたくしは実物をみたことありません

 ちなみに、以前、
「日本の歴史学者は記紀全否定のくせに、中国や朝鮮半島の史記は妄信する!」
 と、書いたことがあるのですが、すみません、間違いでした。彼らは、日本の古代史を貶めるためであれば、魏志倭人伝や宋書、後漢書、三国史記などについても「つまみ食い」します。そして、都合が悪いとことは無視する。
 
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。
 
 たとえば、新羅の第四代王「脱解」は、「倭国」の東北一千里の多婆那(但馬? 丹波?)から来た倭種(倭人の種)でした。三国史記の新羅本記に書いてある。

 あるいは、魏志倭人伝の韓伝には、
「韓は帯方(たいほう)郡(ぐん)の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。」
 後漢書には、
「倭の西北の境界にあたる拘邪韓国」
 とあり、当時の倭国(いわゆる邪馬台国)の勢力が朝鮮半島南部に及んでいたのは明らかです。考古学的な発見も、それを裏付けており、例えば1970年代の調査で、朝鮮半島南部の東三洞貝塚から、膨大な縄文土器や、九州産の黒曜石が発見されました。

 同じく朝鮮半島南部の三千村沖合の遺跡群からは、縄文晩期-弥生時代中期の土器が発見。

 また、後の新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土。ヒスイは、アジアでは日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がありません。朝鮮半島出土の勾玉は、糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明しています。
 
 さらには、1980年代、朝鮮半島南西部の全羅北道、全羅南道、特に南道の栄山江(よんさんがん)沿いから、14基の前方後円墳が発見されました。韓国の学会は、例により「前方後円墳の発祥地は韓国で、倭国へ伝えられたものだ」と声高に主張したのですが、造営された年代は明らかに韓国の前方後円墳の方が新しかったのでございます。

 当時の朝鮮半島南部には、縄文時代から大勢の日本列島出身者がいたのは明らかで、「朝鮮半島の倭人社会」との交易、人の行き交いを通じ、日本に水田稲作や鉄器などがもたらされたと考えるのが自然でしょう?

 ところが、自虐史観たちは、
「2300年ほど前に大勢の(数百万人!とか言うバカ学者もいます)渡来人が日本列島を訪れ、稲作を『教えてくれた』」
 と、根拠なき出鱈目を吹聴し、「日本の文化は朝鮮半島から教えてもらった」なる自虐史観を広めてしまいました

 佐賀の菜畑遺跡からは、およそ2900年前の水田跡が見つかっており、渡来人説が出鱈目であることは判明しているのですが、彼らは自説を訂正しようとはしません。
 
 そして、この度、新たな「決定的な証拠」が出たようです。
 
 奈良県御所(ごせ)市の中西・秋津遺跡で、何と約2400年前の広大な「水田跡」が発見されたのです。
 
弥生時代最大の水田跡、奈良で出土 「10万平方メートル以上にも」
 奈良県御所(ごせ)市の中西・秋津遺跡で弥生時代前期(約2400年前)の水田跡約3500平方メートルが見つかり、橿原考古学研究所が20日発表した。これまでの調査と合わせ、確認された水田跡の面積は約4万3000平方メートルに達し、弥生前期としては国内最大。橿考研の担当者は「地形を考えると、総面積は10万平方メートル以上になる可能性がある」としている。』
 
 神武天皇が日向(宮崎県)から奈良盆地(大和)に入った「神武東征」の時期は、長浜浩明先生の「大阪平野の発達史」の研究から、紀元前50年より「前」であることが確定しています。
 
 日本書紀の、イワレビコ(神武天皇)一行の、
「三月の十日、川をさかのぼって、まっすぐに河内の国の、草香(くさか)の村の、波静かな白肩の津に着いた。」
 という表現は、大阪が「河内潟」の時代でなければ成立しないのです。紀元前50年以降では、大阪は「河内湖」になってしまい、「川をさかのぼって」が不可能になります。

 イワレビコは、日本書紀によると、出立前に、
「私が塩土(しおつち)の翁(おきな)に聞くに、東方に美しい国があり、青い山々が四方を囲んでいる。」
 と演説し、大和(奈良盆地)を目指すことになりますが、塩土の翁は報じられた「広大な水田」を、その目で見た上で、
「東に美地(うまつち)あり。青山四方(よも)にめぐれり」
 と、神武天皇に報告したのでしょう。
 
 今回、水田跡が発見された御所市の中西遺跡は、奈良盆地の最南端にあります。

 当時、奈良盆地の中央には「奈良湖」があったことが、地形学的に証明されています。中西に限らず、奈良湖の周囲には美しい水田が広がり、塩土の翁に「美地(うまつち)」と表現させたのでしょう。

 イワレビコ一行が大和を目指した経緯や、奈良湖については、経世史論の竹村公太郎先生の特別コンテンツ「日本文明の誕生ー神話から歴史へー」として、近々、リリース予定です。
 
 さて、奈良から2400年前の巨大な水田跡が見つかったとなると、ますます「2300年前に渡来人が九州に水田稲作や文化を伝えた」が成立しなくなります。水田稲作は、3000年から2900年前にまずは九州北部(菜畑、板付きなど)に伝わり、次第に広がり、2400年前の時点では奈良で大規模に水田が建設されていた。
 
 これが、真実であり、渡来人云々は完璧に出鱈目です。とはいえ、財政破綻論者と同じく、自虐史家たちが自説を修正することはないでしょう。
 となると、国民一人一人が「(相対的に)正しい知識」を身に着け、国民のメモリーを取り戻し、守り、後世に伝えなければならない

 というわけで、わたくしは最近、歴史系コンテンツに力を入れており、月刊三橋から「日本文明の研究<古代編>」を間もなくリリースし、経世史論を続けているわけでございます。 
 
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