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『日本の少子化をくい止めるにはーその2ー(前半)』三橋貴明 AJER2019.10.22

 

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三橋TV第165回【病院が暇なのは、良い事だ】

https://youtu.be/qyxrgxq_-ec

 

 中野剛志先生、 佐藤健志先生、施光恒先生、柴山佳太先生、島倉原先生のMMT対談の続編がリリースされました。
 
 
『左派が反緊縮でなく「消費増税に賛成」する理由 「道徳」として語られてしまいがちな財政問題
◆MMTと左翼
島倉原(以下、島倉):MMTの議論に賛同する学者は、なぜみんな左派なんでしょうね。
 佐藤健志(以下、佐藤):保守、ないし右派が新自由主義に走ったことに対抗したいのでしょう。先進自由主義諸国では1970年代後半から「福祉国家路線など続けたら行き詰まる。小さな政府で民活路線だ」という風潮が強くなった。日本でもこれが「新保守(主義)」などと呼ばれ、のちの構造改革路線につながります。そんな状況の下「大きな政府で社会保障と格差是正を」と主張したい左派が、理論的基盤としてMMTを見いだしたのだと思います。
柴山桂太(以下、柴山):確かに、左派が「緊縮財政」に対抗する論理を模索するなかで、MMTが出てきたという印象はありますね。
中野剛志(以下、中野):MMT派経済学者のビル・ミッチェルが「MMTはディスクリプティブ(記述的)な理論で、政治的な右左は関係ない」といっていましたが、実際にMMTを唱えている人たちはこの本の著者のランダル・レイを含め、イデオロギー的には完全にリベラルです。ただナショナリズムを強く出しつつMMTを語ることも可能で、MMTはニュートラルだそうですから、私はそっちのほうで語らせてもらっています(笑)(後略)』
 
 後半、議論されている財政関連の「英語」が、実に興味深いのです。

 償還(負債返済)が「redemption」。redemptionは、確かに償い、という意味も持ちます
 信用創造(=貨幣生成)は、money creation。 The creationは、「創成」「天地創造」です。
 austerityは、わたくしは「緊縮財政」としか認識していませんでしたが、一般には厳格、禁欲といった意味もあります

 確かに、財政関連の英語は、宗教色というか、道徳色が強い。
 
 つまりは、現象の表現ではなく、善悪の表現になっているわけです。

 反・緊縮財政は、反・禁欲、つまりは、強欲。強欲といえば、悪魔マモンが統べる七つの大罪の一つです。
 
 改めて日本語を見ると、償還は「償い、還す」であるため、宗教色・道徳色が入っています。「償還」という言葉が江戸末期の造語の一つなのかは分かりませんが、いずれにせよ「redemption」の訳としては、実に適切という話になります。

 緊縮は、「きつく締め、縮ませる」であるため、これは単なる現象の表現であり、宗教色・道徳色はありません。が、英語は「強欲の逆」というわけで、善悪の概念が入っている。
 
 さすがに「強欲は善」という主張に賛同する人は、少なくとも表向きは少ないでしょう。となると、強欲を戒める「austerity (緊縮財政)」は、道徳的に正しいことになる。

 緊縮財政は政策でも、理屈でもなく、実のところイデオロギー(主義)なのですね。
 
 イデオロギーとは、人間の思考や行動を左右する、根本的な思考体系です。理屈でも現実でもなく、「正しいから、正しい」というのがイデオロギーの特徴です。

 無論、あらゆる人間は特定のイデオロギーと無関係ではいられません。
「自分は自由にものを考えている」
 と、思いたいところですが、残念なことに人間は「特定の枠組み」の中でしか思考できません
 
 人間が生きていく上で、社会の秩序を維持するための思考の枠組み、規範の一種が宗教であり、道徳です。
 
【歴史音声コンテンツ 経世史論】
※11月5日から上島嘉郎先生と三橋貴明の対談「自虐史観はなぜ始まり、深刻化したのか」がご視聴頂けます。
 
 七つの大罪が典型ですが、「欲してはいけないこと」「欲して構わないこと」をイデオロギーとして規定し、社会の秩序を維持する。

 人間が社会的な生命体である以上、社会の秩序を維持するために、何らかの「決まり」は必要です。代表的な「決まり」が法律ですが、法律に頼らずとも、人々の思考や行動を制御できるのが宗教であり、道徳です。

 その宗教や道徳と「緊縮財政」が直接的に結びついているとなると、我が国が緊縮路線をなかなか転換できないのも無理もありません。

政府が貨幣を発行し、国民の所得(利益)となるように支出する
 と言われると、反射的というよりは「道徳的」に拒否のメカニズムが働いてしまう人が少なくないわけです。特に、「正義感」が強ければ強いほど、
「そんな国民を甘やかすことはしてはいけない」
 と思ってしまうのでしょう。

 皮肉な話は、国家の「決まり」を嫌悪し、社会の共同体を壊し、人間を個別化する「グローバリズム」と緊縮財政の相性がいいことです。グローバリズム、あるいは主流派経済学の「経済の管理人」は、「市場」ですが、これをアダム・スミスは「見えざる手」と表現しました。

 この「見えざる手」に、いつの間にか「神の見えざる手」と、「神」という言葉が入ってしまった。神となると、露骨に宗教的です。
 
 何を言いたいのかと言えば、緊縮財政・規制緩和・自由貿易という、特定の誰か(つまりは「自分」)の利益最大化を目指すグローバリストは、人々の「宗教心」や「道徳心」に訴え、目的を達成しようとするという話です。

 偽善というか、やはり邪(よこしま)と表現するべきなのでしょう。

「市場は神の見えざる手が動かしている以上、逆らったり、歪めてはならない」
 と言われると、普通の人は納得しますが、結果的には多くの国民が貧困化し、特定の誰かだけが儲かる。

 ちなみに、わたくしは別に市場を否定しているわけではなく、レント・シーカーのレトリックを批判しているに過ぎません。市場に任せた方が「経世済民」につながる財やサービスも、それはあるでしょう。

 あるでしょうが、「全ての財やサービスにおいて、市場が常に正しい」などという話になるはずがありません。それにも関わらず「神の見えざる手」と、あたかも普遍的に正しいかのごときレトリックが使われる。

 そして、緊縮財政に反対すると、「強欲的」と批判され、道徳的に間違っているという印象を植え付けられる。というか、英語に至っては、言葉そのものがそうなっている。
 厄介です・・・。
 
 厄介ですが、恐らくこの種の問題に、過去の人類は数百年、あるいはそれ以上の期間、苦しんできたのでしょう。
「緊縮財政は道徳的に正しい」
 とやってくる緊縮推進派に対し、
「いや、違う。一見、緊縮財政は禁欲的で、道徳的に正しいように見えるが、実際には『特定の誰か』を富ませるだけで、国民が貧困化し、最終的には経済や共同体が維持できなくなる」
 と、上記の構造を説明する必要があるわけです。

 禁欲も道徳的に正しいのかも知れないが、「みんなで豊かになる」も道徳的に正しいよね? という、問いかけをしていく必要があるのです。 
 
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