川原ひろし・なんでんかんでん社長 東日本大震災で壮絶な被災体験を語る! | 日本元氣計画!! 中村たかし

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 7歳より「世界を平和に出来るのは俺しかいない!」と世直しを志す。日本新党広報部次長(細川護熙首相)、日本創新党選対副委員長など。現在は、日本元氣計画!代表、平成立志社代表、元氣NIPPONプロジェクト事務局長              

我が同志
川原ひろし・なんでんかんでん社長

東日本大震災で壮絶な被災体験を語る!
(今から10年前の記事で振り返ります。)

(2011年3月29日 リアルライブ)
 マネーの虎でおなじみのラーメン店「なんでんかんでん」川原ひろし社長(47)が、東日本大震災で被災したことは既に報じたが、リアルライブは被災地から着の身着のまま帰ってきた川原社長を直撃。「まだ、福島第一原発のこともあり、ボクなどが大震災を語るべきなのか」とちゅうちょする社長だったが、体験した事実のみを淡々と語ってくれた。

 川原社長「まず、多くの犠牲者の方々、心よりご冥福をお祈り申し上げます。また、被災して避難生活を余儀なくされている方々にも心からお見舞い申し上げます。一日も早く元の生活に戻れますように」

 −−震災時は仙台にいた?
 川原 11日〜14日まで開催のフードショー(グルメコロシアム)のために10日から仙台入りして「夢メッセみやぎ」にいました。仙台港から4〜500メートルくらいのところです。「なんでんかんでん」を出店していて、100店舗あまりが出店していました。
 あの時間は、お客さんも含めて2、3千人がいたんじゃないかな。ボクは午後3時からイベントスペースに出演予定があって、2時40分ごろからラーメンを作っていたんです。最初はユラ〜っと来て…。数日前にかなり強い地震が来たって聞いていたので、その余震かと思ってたら…。

 −−かなりの揺れだった?
 川原 5分以上揺れてましたね。建物の中の人はほぼ全員外に飛び出したんです。そしたら駐車場にビリビリってヒビは入るわ、隣の変電所の高圧電線がしなりだして接触し火花が散ったりして。コンクリートは浮き上がるし、大変なことになったな、と。なんとか揺れが収まって、しばらくしてイベントホールに戻ったら…100店もの出店はもうメチャクチャで!
 ウチのチャーシューもひっくり返ってるし、スープもこぼれてるし、冷蔵庫もあっちのほう行ってるし、「ああ、今日はもう出来ないな。これは片づけるの大変だな」と。けが人などは幸い出ていませんでしたね。さあ、片そうかとしていたら、イベントの係員数人が血相変えて飛んできたんですよ。
 「なにやってんですかっ! 早く隣のビルに避難してください!」と。

 −−強制避難させられた?
 川原 いま考えると、本当にイベント係員には感謝してもしきれないぐらい…。命の恩人ですね。係員は来ていたお客さんには「津波の危険があります。いますぐ高台に避難してください」と声を掛けて回っていました。
 なので、お客さんは車などですぐ立ち去っていきましたね。残念ながら、その後の消息は確かではないので滅多なこと言えませんが、ほとんどのお客さんは津波自体からは逃げきれたのではないかと。

 −−残る出店スタッフはどうした?
 川原 (現地のアルバイトなどを含めて)約700人のスタッフがいたんですが、イベントスペースのすぐ隣にある「仙台港国際ビジネスサポートセンター」の4階と5階に急いで避難してくださいと言われたんです。もう、取るものも取りあえずという感じで…。ボクも上着だけ羽織って駆け上がりましたよ。ビルに全員が避難するまで20分ぐらいだったかな。

 −−結果としてイベントスタッフに誰も犠牲者はでなかった?
 川原 仙台放送局が主催するイベントだったんですけどね。すべてにおいてパーフェクトでしたね。
 実は、あの震災の数日前に起こった地震で「避難場所の確保」と「避難誘導の指示」の訓練は徹底してやられていたみたい。地震後、当然電気はストップ、津波警報は出ていたと思うけれど、細かい情報が入らないなかで混乱せずに避難できたのは、やはり仙台放送の係員のお陰としか言いようがありません。

 −−すぐに津波が来た?
 川原 いやいや! すぐには来なかったんだよ仙台港は! だから逃げる時間もあったのは確かだし、人によっては「来ないじゃないか」と判断して、自宅の様子を確かめるために戻って犠牲になったケースもあるのではないかな。ボクらの避難が完了してから実際に大津波が来たのは、1時間以上経ってからだったから。

 −−避難してどんな心境だったか?
 川原 実はボクもその時は、こんな未曾有の津波が来るとは思ってなかったさ。みんな無事でケガなどしていないし、片付けにも戻りたかった、正直に言うとね。しかし係員が「大津波警報が解除されるまで絶対にここから出しません」と言う。
 30分が経ち、1時間が経ち、もう来ないんじゃないかと思い始めた頃だよ…。外を見ていた女の子が「キャーッ!」って言い出したんです。人をかき分けて窓に近づいたら…。

 −−現在ニュースで流れているような惨状だった?
 川原 …地獄ですよ。波が…一挙に押し寄せてくる。車も何もかも簡単に飲み込んで…。走って逃げてる人がいるのよ、遠くに。すぐ飲み込まれていった。車も猛スピードで逃げてたけど最後は…。
 その時間、雪が強くなっていて吹雪ですよ。上は見通しが利かないぐらいの白い景色、下は濁流、波がビルにあたってシブキを上げる。流されていく人が何人もいるんだけど、助けようにも、もう何もできない…。

 −−地獄絵図だった?
 川原 これはとんでもないことになったなあ、と。津波が引くとね、流されひっくり返った車が次々発火するんですよ。もうあちこちで火事みたいになって。でも、どうすることも出来なかった。
 まんじりともせずに朝を迎えたんですよ。明るくなって外に出てみると、潮の臭いにむせかえりそうになったボクらが見た景色は目を覆わんばかりの惨状だった。

 −−津波が引いたあとは地獄絵図だった?
 川原 道路がみんな砂浜みたいになってるのよ。まず車(乗ってきたワゴン)を探しましたね。まあ、流されてるだろうな、とは思ってたんだけど。でもなんとか見つかった。やっぱりぐちゃぐちゃですよ。
 悪夢のような一夜だったけど、ある意味「夢」みたいだったんだよね。でも、この瞬間に理解しましたよ。「あ、ボクらは被災者なんだな」って。
 電気、ガス、水道全部止まってる。余震も怖い。しかし、ボクらはここを、この時間をなんとか生き延びなくちゃならない。言葉は適当ではないかもしれないけど「戦時下」の状態ですよ。
 遠くでは火力発電所の燃料タンクが爆発して黒煙上げているし、周りは瓦礫の山だし…。少し瓦礫を動かすと逃げ遅れた方々の遺体が何体も目に入る。でもどうすることもできないんだよね。

 −−生き延びるためにどう行動?
 川原 とりあえず、宿泊していたホテルに戻ろうと。イベントで同じ宿に泊まっていた人たちと感覚を頼りに歩き出しました。
 ホテル・ルートイン多賀城は一階部分は車などが突っ込んでメチャクチャでしたけど、ボクらの部屋は4階だったから大丈夫だった。助けがくるまで数日間、何とかしなくちゃいけない。でも、近くのコンビニエンスストアもぐちゃぐちゃで機能していなかった。
 最近の報道で火事場泥棒みたいなのが出没してるってのを聞いたけど、震災翌日の被災者の行動は大目に見てほしいな。生きるので精一杯だったんだから。

 −−水や食べ物はどうした?
 川原 ボクらが幸運だったのはフードショーに出店するために来ていたこと。もうひとつ幸運だったのは出店していた店舗が共用していた食材の大型冷凍車が1台だけ奇跡的に流されずに残っていたんだよ。バスぐらいのデッカイやつだったからね。
 密封性が良くて、ほとんど水が入っていなかった。中には食材がいっぱい入っていて助かったんです。ホテルに持ち帰ってカセットコンロで焼いて食べることができました。
 また、ホテルの手前に「ビックリドンキー」(ハンバーグ店)があって、その店主がこのままだと腐ってしまうからと言ってハンバーグを差し入れてくれたんです。人の温かみをこんな時にヒシヒシと感じましたね。

 −−外部との連絡は取れなかった?
 川原 電話はまったく繋がらなかったね。でもみんなかけるから電池が切れる。なかにはたまたま電池式の充電器持ってる人がいて、一躍ヒーローでしたね。電気がないからテレビは当然見れない。ラジオからの情報が少し、あと新聞は読めたな。だけど、こんな東北地方全体にひどいことになってるとは思わなかったな。

 −−避難所には行かなかったのか?
 川原 ホテルの従業員に安全の保証ができませんと言われたので、避難所に行ったのよ。13日のことだったかな。でも、もう満杯で入れませんってことだったのかな。鍵が掛かっていた。仕方がないとホテルに戻ったんですよ。

 −−川原社長の実害部分について?
 川原 地震の翌日、イベントホールの中覗いてみたんだけど、キレイサッパリ流されてたね。ここに100店舗の出店があったのに…根こそぎ消えていた。乗ってきたワゴンは木の間にひっかかってましたけど、中も含めてぐちゃぐちゃ。でも、生きてるだけで感謝しなくちゃね。
 「なんでんかんでん」の食材が入っていた冷蔵庫があったんですけど…これは、奇跡的に見つかった。イベントホールから2キロ流されてました。

 −−極限状態を体験して何を感じた?
 川原 生きていくことに貪欲になりましたよね。突然、非日常の世界に入ったみたいで本当に「夢じゃないのか」と思うこともありましたけど。いろいろなモノが喪失していくなかで、なんとか自分はやっている、というのを見せたかった。極限状態でどう動けばいいのかとか常に問われていた数日間だったと思う。
 あの未曾有の災害で生き残った者として、ここで負けてられんというか…。

 −−どうやって帰京できた?
 川原 結局、二日目の夜もホテルで過ごしました。食材に関しては幸運なことに問題はなかった。冷凍してあった海鮮モノ(自然に解凍されていたけれど)で鍋やったりしてね。
 しかし、これからどうする? 途方にくれてたんですが、仙台放送さんがワゴン車を回してくれると。ただ、東京方面への道は使えそうにないので秋田、山形方面には行けます、とのことだった。ちょうど新潟に出店したばかりだったので、なんとかそこまで乗せて行ってもらえればと。新潟経由で帰ってきました。

 −−被災地への想いは?
 川原 ボクらも被災者だが、踏ん張っていきましょう。また仙台でのイベントに参加することができる日が来ることを願っています。自分が被災してしまったので、炊き出しなどのボランティアなどやるという状態じゃなかったのが悔やまれる。東北の人たちにウチのラーメンをまた楽しんでもらいたいね。

 

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