私の人生の師の一人、黒木安馬先生のメルマガが一昨日届きました。
その内容に大感激をいたしましたので、皆様にシェアさせていただきたいと存じます。
対馬島民とバルチック艦隊
ペリーが戦艦黒船で江戸幕府を脅して開国に漕ぎ着けたのが明治維新15年前の1853年。
3年後にはタウンゼント・ハリスが下田玉泉寺に初の米国領事館を構える。通訳ヒュースケンは『日本日記』にこう残している。
「びっくりするくらい愉快で明るい日本人、この国の人々の飾り気のなさを私は賛美する。至るところに子供たちの笑い声が聞こえ、どこにも悲惨なものを見出すことができない。私たちは西洋の病的な悪徳を持ち込もうとしているように思われる。北斎や写楽などの浮世絵、歌舞伎、東海道中膝栗毛など文化文政時代の享楽的芸術的にはじけた素晴らしい人々の遺伝子はずっと続くだろう。どんなに貧しくても小さな冗談にも子供のように笑いこけ、世の中の苦労をあまり気にしていない日本人は驚きだ」。
チョンマゲと刀の幕末維新からまだ36年目、この戦争にもし負けたら日本語も使えなくなるロシア植民地になってしまう東洋の小国、と世界から見られていた日本。
その瀬戸際に、
“皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ”と、
対馬の沖でバルチック艦隊38隻を撃沈し、
有色人種が地球上の白人支配文明を打ち負かして世界中をアッと言わせる。
バルチックとは、スカンジナビア半島とフィンランド、ヨーロッパ大陸に包みこまれたバルト海の奥にある今のサンクトベテルブルグに基地を持つ世界最強と言われたバルト海艦隊である。
その北海から大西洋に出て南下、アフリカ喜望峰を回り、東シナ海を北上してウラジオストックを目指した。
地球一周が40.077kmに比して33.340kmの長大な航海は信じがたい距離である。
1904年(明治37年)10月15日から1905年(明治38年)5月27日まで7ヶ月以上、ロシア軍はほとんど寄港も許されなかった国際情勢の中で航海中にも相当の病死者を出したと言われている。
記録によれば、「疲弊しきったロシア艦隊は対馬沖で待ち構えていた日本艦隊に狙い撃ちされ、戦死4,830名、捕虜6,106名という悲惨な結果になった。
ウラジオストクへ逃げ切ったのは3隻のみ、
捕虜には総司令官ロジェストヴェンスキーとネボガトフの
両提督が含まれていた。
日本の損失は小型の水雷艇3隻のみ、戦死117名と軽微であり、世界の戦史に残る驚異の一方的勝利だった。
捕虜は沈没で海に投げ出されて日本軍の救助活動で救命された。
対馬や日本海沿岸に流れ着いた者も多く、
各地の住民に保護された。
日本は文明国であると国際社会にアピールするためにも
戦時国際法に極めて忠実であり、
戦時法遵守が末端の水兵にまで徹底されていた。
ロシア兵捕虜は、日本国民が戦時財政下の困窮に耐える中、
十分な治療と食事を与えられ、健康を回復して帰国した。
自国の軍法会議での処罰を恐れる士官は
日本にとどまることも許された。
戦時国際法を遵守した武士道日本に世界各国から賞賛が寄せられた。
ロジェストヴェンスキーは佐世保の海軍病院に収容され、
薩摩の軍人・連合艦隊司令長官東郷平八郎の見舞いを受けた。
東郷は軍服ではなく白いシャツという平服姿で病室に入ると、
ロジェストヴェンスキーを見下ろす形にならないよう
枕元の椅子に腰掛け、顔を近づけて様子を気づかいながら
ゆっくり話し始めた。
この時、極端な寡黙で知られる東郷が、
付き添い将校が驚くほどに言葉を尽くし、
苦難の大航海を成功させたにもかかわらず
惨敗を喫した敗軍の提督を心からねぎらった。
ロジェストヴェンスキーは、敗れた相手が東郷閣下であったことが
私の最大の慰めです、と涙を流した。
回復して帰国し軍法会議にかけられたが、戦闘中に重傷を負い指揮権を持っていなかったとして無罪となり60歳まで生きた」、とある。
5月27日、対馬の島民は下関や島根県方角の洋上の彼方から、ド~ン、ズ~ンと地響きが轟くので戦争らしきものが起きているのではと想像していた。
当時はライト兄弟が初飛行に成功してからまだ1年半の時代、
一般の島民に伝わる情報網は、電話回線はまだ通じておらず、
役場に無線で打電されてきた内容の又聞き、
数日遅れの風の噂ぐらいでしか届かなかった。
その翌日28日の昼すぎ、
島の東端に突き出た岬の殿崎の丘で麦刈りをしていた村人たちは、
まぶしい海原で何かキラと光るものに気づいて手を休め、
腰を伸ばして遠くを注視した。
次第に近づいて来るに従って、それはボート4隻であり、
両横に並んで漕いでいるオールを一斉に挙げた時に反射している光だと分かる。
間もなく眼下の浜辺にたどり着くと
ぞろぞろと陸地に飛び降り始めた。
浜から草の茂った急斜面の小路をじわじわと男たちが
こちらに登ってくる。
色白で赤茶けた髪、赤ら顔で背が高く眼の色も青く、
生まれてこの方見たこともない恐ろしげな異人たちが
視界に入ってくる。
村人は草刈鎌を握り締めたまま恐る恐る後退した。
異様な雰囲気に驚いた子供は泣き出して母親にしがみつく。
油とススにまみれた軍服、裂けて血だらけの者、
傷だらけでようやく立っている男、
這いながら仲間に捨てられまいと息を切らしている者・・・
数え切れないほどの異国の負傷兵たちだと直ぐに分かる。
双方は立ち止まったまま警戒したが、
やがてお互いに敵意はなさそうだと
村人の一人が片言で語りかける。
日本語が通じるはずも無く、
身振り手振りのジェスチャーで水が欲しいのだと理解し、
崖下にある湧き水まで皆を案内する。
我先にと、のどを鳴らしてうまそうに貪り呑む異国の兵隊たち、
恐ろしい中にも同じ人間として何か哀れさを感じる。
そうこうするうちに今にも壊れて沈みそうに漂着した
小型蒸気船の乗組員も加わって総勢163名の
外人部隊に膨れ上がった。
村につれて帰って傷の手当もしなければと移動を開始したのが
午後2時過ぎ。西泊の村に帰り着くと、
タライや桶を各家庭から持ち寄って井戸水が空っぽになるまで
水を汲み、油や血で汚れた服を脱がせて手で洗い、
家から大切な着物を持ち出して着せたり、
怪我の手当てをしたりと村中はてんやわんやの大騒ぎになった。
なけなしの貴重な米を皆で持ち寄って握り飯や芋を炊き出しするが、
彼らは毒が入っているとでも思ったのか誰も口にしようとしない。
こちらで一口食べて見せると、
相当に空腹だったのか一気に飛びついて貪り始めた。
島の巡査は、彼らは日本が同盟を結んでいる
イギリスの兵隊だから安心せよ!と村人を落着かせた。
大勢の兵隊を泊めてあげるだけでも大変だった。
人口も数えるぐらいしかいない島の端にある小さな漁村で
布団がそれだけ用意できるはずも無く、
手分けして家や納屋を開放して蚊帳や古くなった帆を
上から掛けてムシロで寝てもらうことになった。
結果的に手当ての甲斐も無く亡くなった
大怪我の指揮官ドミトリ・ピーター・マクソタフ海軍中尉を始めとして、
敵国にて迫害を受けるのを覚悟の上で上陸したにもかかわらず、
家族を思うような精一杯の親切と
不眠不休の温かいもてなしの数々に感激で涙したと言う。
それぞれの兵はルーブル銀貨やソブリン金貨数十枚、
受け取ってはならぬと言う役場からのお触れで村人は固辞したものの、
精一杯の感謝の気持ちを表そうとして無理やり置いていったものが多かったという。
間もなく打電のやり取りで、
実は大海戦で戦った敵国ロシア軍の敗残兵だと分かったが、
村人にとっては今更そんなことは
同じ人間としてどうでも良いことであった。
翌29日夕方4時過ぎには、
本土の捕虜収容所に輸送するため
日本海軍から船が回されて到着した。
27時間にも満たない2日間の短い出来事であったが、
ロシアの水兵たちは広場に整列、村人たちに最敬礼して、
“スパシーボ(ありがとう)!”と何度も繰り返しながら
感激の涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
沖に浮かぶ輸送船までは漂着した時のボートを漕いで
浜を離れたが、途中で振り返りながら
一斉にオールを直立させて深い謝意を表したと言う。
村人たちも波間に見えなくなるまで手がちぎれるほど振り続けた・・・。
以上は私が対馬を取材訪問した時に頂いた著作、
この事件時の子孫である犬束通さんの
『妣(はは)と記念碑・日本海海戦後の伝記集』からの抜粋、
要約である。
後にこの村人の応対に感動した東郷は、
「恩海義嶠」と書にしたためて西泊村民の美挙をたたえた。
“戦争で死の海となった対馬が恩愛の海となった、その義はなんと気高いものであろうか!”
と解釈されるが、この記念碑は日露友好の丘、
殿崎に東郷の直筆で彫られて
「人類愛と世界の恒久平和を未来永劫に発信し続けるべく」、
今日も日本海を見据えて静かに建っている。
この海戦の15年前に紀伊半島南端の串本で、
嵐で遭難したトルコ軍艦「エルトゥールル号」を
命がけで救った村民の美談は
今日でもトルコの教科書に書かれていて、
日本は今でもトルコ国民に尊敬されている。
果たして、対馬の美談は、今日のロシアではどう伝えられているのだろうか?
いや、それ以上に、わが祖国では、どれだけの日本人がこの逸話を知っているだろうか?
孔子に弟子が問う、「一生それを守っていれば間違いのない人生が送れる、そういう言葉がありますか?」
孔子は熟考した後にゆっくりと、「それは恕(じょ)かな」と答えている。
いつもの断定的ではなく、「~かな?」と孔子が言うのは、私が知る限り論語ではこの箇所だけである。
自分がされたくないことは人にしてはならない、
自分のことと同じように人のことを思いやり、
他を受け入れ、認め、許す心。 まさに、おもてなしの心でもあろうか。
人生で一番大切なことだと教えている。
少子高齢化、右肩下がりと言われている我が祖国日本。
それでも誇りを持って
今後とも世界に輸出できるのは、
この“恕・Hospitality(おもてなし)の心”であろう。
以上です!
いかがでしたでしょうか?
私は大感激でしたし、この話は知らなかったのです……
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