話の発端は6月のカラオケオフ会の事でした。
久しぶりに会った友人たちと結局三次会まで参加して、大いに騒ぎ、お開きになり、さあ帰るぞとなった時に、家内から借りてきたショルダーバックに付いていた「ピンバッジ」が、なくなっているのに気が付きました。
このピンバッジは去年の11月に滋賀県の竹生島に行った時に頂いたものでした。
竹生島は日本三大弁天様のうちでも最古の弁天様が祀られている神社で、何故か「竹生島波兎」という兎の紋が有名なのです。
その「竹生島波兎」のピンバッジでした。
実はショルダーバックにも波兎(こちらは九州にて購入)が描かれていて、その竹生島波兎がバッチとばっちりコーディネートされていたのです。
家内は兎年なので、兎のグッズを数々集めていて、この竹生島波兎のピンバッジとバッグのコラボの組み合わせは、コレクションのなかでもかなりレアなものでした。
無くしたのは、カラオケ屋かそれとも居酒屋か、見当もつきません。
それならばと、インターネットで購入しょうと思ったのですが、神社のホームページにもその「竹生島波兎」のピンバッジはありませんでした。
そうこうしているうちに家に着き、事情を家内に話すと
はじめはとても驚いた感じでしたが、すぐに「縁がなかったのね」とクールに納得してくれました。
良かった、と普通なら安堵の気持ちになるはずが、
《ちくしょう、何故そんなに簡単に諦めるんだ、体操の萱和磨さんは諦めなかったから金メダルをとったのに》
と心の中で思いました(基本オリンピックは見ませんが)
自分は、根がひねくれているので、そうやすやすと諦められると、逆に何としても見つけて手に入れてやる、と思ってしまうのです。
こうやって長年家内は、まんまと一戦交えずに自分の希望を簡単に叶えてしまう智将なのです(わかっちゃいるけどねぇ)
手に入れると決心したものの、どうしたものか、入手する方法はもうない、万策尽きた、と思った時、
「そうか、また竹生島へ行けばいいんだ」
とピラメキ?ました。
https://youtu.be/CfXdp7ckY7U?si=x7eZ6jqEx5Y5byBv
ピンバッジを無くした時はどうしょう?ピラピラ〰
そして今回、家内の策略か、仏様の導きか、結果として予期せぬ竹生島への再度参拝となりました。
そうそう「竹生島」は「ちくぶしま」と読みますが、《ちくしょうしま》とも読めますね。
恐るべし言霊…「ちくしょう」と思ったばかりに竹生島とつながってしまったのか、はたまた竹生島へ来んさい、という神様からの思し召しが口をついて出てしまったのか…。
https://youtu.be/afIymOX3m5A?si=nDc245YSKGkRKF5f
今回二度目となる滋賀県を訪れるので、改めて調べてみるととてもデープな場所だとわかりました。
飛んで埼玉どころではありません!
前回は京都よりの宇治を中心に巡ったため回れなかった湖北(琵琶湖の北)から下ってまわります。
湖北には、関ヶ原の他にも、石田三成が秀吉の家来になったきっかけをつくった「観音寺」をはじめ、元三大師の出生地「玉泉寺」、中江藤樹と同じ儒教の大家、雨森芳洲の「雨森観音寺」や、少し下った場所には、多賀三社、近江七福神などもあります。
そしてもちろん竹生島や沖島の島もまわる予定です。
竹生島は、波兎も有名ですが、何と言っても弁天と龍神ですから。
琵琶湖には龍神がたくさんいて、藤ヶ崎の妙徳龍神、竹生島や雨宮龍神社の八大龍王(外八海の身丈龍神)などまだまだたくさんの龍神伝説がのこっています。
そしてグルメでは、「近江牛」や琵琶湖にしか生息しない「ビワマス」、そして地元では有名な「鯖ソーメン」、「のっぺいうどん」、「鮒ずし」「近江ちゃんぽん」などなど、こちらも食指が動きまくりです。
それと忘れてはいけない「彦根城」。
皆さんは彦根城のキャラ「ひこにゃん」はご存知だと思いますが、何故猫キャラなのか知っていますか?
実はすでに何度も訪れている地元の「豪徳寺」と深ぁーい関係があったのです。
豪徳寺の猫のお話しは知っていると思いますが、ざっとおさらいしますと、
ある日、鷹狩り帰りの殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされ、立ち寄ることに。
寺で過ごしていると、突然雷が鳴り
雨が降りはじめました。
雷雨を避けられた上に、和尚との話も楽しめた殿様は、その幸運にいたく感動したそうです。
その御殿様こそ、彦根藩主の井伊直孝公でした。
のちに豪德寺は、直孝に支援され、寛永10年(1633年)に再興しました。
つまり「彦根城のひこにゃん」と「豪徳寺の猫にゃん(たま)」は同じ猫ちゃんなのです。
こんなご縁、猫好きな吾輩は、にゃんともタマランチ会長です。
また井伊家の井伊直弼は歴史書では「極悪人」のように描かれていますが、幕府に先駆けて開国した先駆者として、今では横浜に井伊直弼の銅像が立っています。
もちろん豪徳寺にもありますから、見比べてみるのも面白いと思います。
深い所では自分の地元とご縁があったのです。
また茶道でよく使われている「一期一会」も井伊直弼の本からの言葉なんです。
教科書の教える極悪人か、はたまた茶道の大家か、両方の評価が入り混じった人物ですが、武家茶道として有名な石州流の茶人ですから、自分としてはどうしても悪人とは思えないのです。
井伊直弼の茶湯三言四句に
「茶非茶、非非茶、只茶耳、是名茶」
世俗で行われているような茶道は高貴ぶった贅沢な茶室やお道具、茶席の客人の各等を重視するので眞の茶道とは云えない。
素朴な自然体の茶、禅、「無」の世界のような心境での茶道こそが眞の茶道で…(埋木舎当主・大久保治男訳)
ただひたすらに「茶之一道」を求める直弼の茶の湯とは、禅の精神そのものですし、こんな事を言える人が変な小細工をするはずがないと思えるのです。
実は桜田門外の変で殺された理由は、食べ物だったという説すらあるくらいです。
「桜田門外の変で井伊直弼が討たれたのは、幕府が楽しみにしていた近江牛の献上を断ったから」という逸話があるそうです。
江戸時代、まだ一般的に肉を食べる習慣がない時、彦根藩の井伊家では、幕府や諸大名への毎年の挨拶に、牛肉の味噌漬けを贈る習慣がありました。
それは、彦根藩は武具作りが盛んで、甲冑(鎧兜)に用いる牛革を取るために、唯一、幕府から牛の屠殺を許されていたのです。
そして、残った牛肉の味噌漬けは、滋養強壮の薬「反本丸(へんぽんがん)」として珍重されていました。
ところが1850年(嘉永3年)に、敬虔な仏教徒である井伊直弼が藩主に就任後は、牛の殺生を禁止し、牛肉の味噌漬けを贈ることもやめてしまったのです。
毎年牛肉を受け取っていた諸大名のなかには、がっかりする者もたくさんいたようです。
とくに水戸藩第9代藩主の徳川斉昭は大の牛肉好きだったので、その落胆も尋常ではありませんでした。
その後、二度も牛肉を送るように催促の手紙をだすのですが、井伊直弼はきっぱりと断っています。
そして
桜田門外の変が実行される直前、幕府は、水戸藩士らが直弼を襲撃する恐れがあることを察知していたといいます。
当然、第9代水戸藩主の斉昭も知っていたでしょう。
家臣達の暴走を止めるべきか、止めざるべきかと天秤にかけたとき、斉昭の頭の片隅には、牛肉の味噌漬けにまつわる苦い記憶が浮かんでいたに違いありません(刀剣ワールド抜粋)
もしそうならば、井伊直弼の生真面目過ぎる性格が仇となったのかもしれません。
でも、そんなくだらないことで殺されるなんてことあるのでしょうか。
実は似たようお話しが中国にもあります。
中国戦国時代の話です。
中山(ちゅうざん)という小国の王が、酒宴を開き国中の名士を招待しました。
そのなかに司馬子期(しばしき)という男がいました。
宴もたけなわになり、メインディッシュである羊のスープがふるまわれましたが、司馬子期のところで足りなくなってしまったのです。
これに激怒した子期は、隣の国である楚の国にいき中山王を討つように懇願したといいます。
結果は中山王は国を追われる事となったのです。
中山王は逃亡の途上でこう嘆いたといいます。
「怨みは深浅を期せず、其れ心を傷(そこな)うに於いてす。
吾、一杯の羊羹(ようこう)を以って国を亡(うしな)う」
恨みの大きさでなく、プライドを傷つけたことによって大変なことになってしまった、たかが羊のスープ一杯のことなのに、と嘆いたということです。
近江牛の催促をされた時、もし違う対応をして相手のプライドを傷つけなければ、桜田門外の変は起こらなかった…かもしれません。
現代は何でも食べられるとはいえ、どこか通じるものがありますね。
ちなみに
この羊のスープが羊羹(ようかん)の語源となったようです。
中国の古語である「羊羹」は読んで字の如く、「ひつじの羹(あつもの)」であり羊の肉が入ったお吸い物を意味しています。
日本の羊羹とはだいぶ違いますね。
またまた前説が長くなりましたが、今週末、またまた琵琶湖の寺社活へ行きます、例によって相当な大盛りとなりそうです。