縄文遺跡巡り 町田編 | パーマン三号のブログ

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朝起きてシーチキンの缶詰のプルトップを開けて、箸を取ろうとして、小指をひっかけて、シーチキンの缶が一回転して、床に裏側のピカピカの腹をみせて落ちてしまった…夢をみました。

もしこれが予知夢だとしたら、当たって欲しくないなぁ。

いや、そういえば過去にあったような気がするので、過去夢?


予知夢、過去夢でもどちらにしても、本日も平和な一日になりそうです。


町田には博物館や美術館などがたくさんありますが、「町田市考古資料館」というのがあるのは知りませんでした。

お昼前にちょっと足を伸ばして調査してみます。

★「回った場所」★

【町田市考古資料室】
・(HPより)町田市には約900ヶ所の遺跡があり、そのうち8割が縄文時代の遺跡であることから、「縄文のまちだ」をテーマにした考古資料

・イメージキャラ→「まっくう」→中空土偶が発掘されたから



【米家さんきゅう境川店】
お昼のおにぎり購入


【稲荷社、七面大明神、三社合神社、宏善寺】
・(SMSより)…寺院かと思ったのだが石碑の側面に「末法総鎮守七面大明神」とも刻まれていた。

ここから直線で約300m東に日蓮宗 宏善寺(旧名 身延久遠寺)があり、この寺との関連で設立されたものだろう。

Wikipediaから
七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。
七面天女は、当初日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。

これが七面大明神とすると、近所の三社合に下記のように記載したが三社合に合祀されたのでは無かったことになる。

町田風土記(森山兼光)によると

本町田には、天保14年(1843)頃、天満宮・七面大明神・水元浅間社の3社が祀られ、明治3年頃には天神社・稲荷社・大六天社・七面天神社・千眼天神社の5社になり、明治12年には天神社・七面社・第六社・白山社の4社が祀られていた。

ここ三社合には内部に、稲荷社他2社が合祀されている。拝殿前には石の祠がある。これらから、上述の明治3年~明治12年に存在していた、稲荷社・六天社・七面天神社・千眼天神社・白山社から4社がここに祀られているのでは無かろうか。 

石碑は昭和52年に奉納されたと記載があるが、建物は相当傷んでおり果たして神社として機能しているかどうか不明である。






【本町田遺跡公園】
・(HPより)縄文時代前期の住居跡4軒と、弥生時代中期の住居跡7軒が見つかりました。その一部が史跡として保存されています。現在は縄文、弥生時代の住居各1軒が復元され、内部も見学することができます。
・おにぎり食す






【高ヶ坂石器時代遺跡(牢場、稲荷山、八幡平)】
・(HPより)高ヶ坂石器時代遺跡は、牢場、稲荷山、八幡平遺跡の3地点からなる縄文時代の集落跡です。現在の牢場遺跡にあたる場所で、畑のごぼうが曲がって成長していることをきっかけに、1925年に発見されました。翌年、丘陵地における住居跡発見の第一号として国史跡に指定されています。








【稲荷神社】
・高ヶ坂遺跡より一番近いお稲荷さん



今回の何と言っても驚きだったのは「縄文時代の急須」と「香炉」です。



今も使っている急須と全く同じデザインでした。

そして香炉があるということは香りを楽しんでいた、ということです。

さらにイヤリングも穴開きタイプと挟むタイプの二種あって、オシャレにも大変気を使っていたのがわかりました。
紀元前10000年以上前の話なんて驚きです。

そして遺跡が発掘された場所はどこでも、どこからともなくいい風が吹いて来る場所でした。

のんびり横になるのにいい場所でした。


『空気』まどみちお (抜粋)

ぼくの心が いま

すきとおりそうに 清々しいのは

見わたす青葉たちの 吐く空気が

ぼくらに入り ぼくらを内側から

緑にそめあげてくれているのだ



一つの体をめぐる

血の せせらぎのように 胸から胸へ

一つの地球をめぐる 空気のせせらぎ!

それは うたっているのか

忘れないで わすれないで…と

すべての生き物が 兄弟であることを…と